2014年11月22日

「いじめ」は本能

 いじめや差別、ヘイトスピーチなどが話題にのぼることが多くなった。
 こうした「異物排除」を基調とする行為は、ある意味で人間の本能に根差しているのではないかと思う。
 人間だけでなく、群れをつくる生物の世界でも(あくまで人間から見て)いじめや差別であるかのように映る行為は、よく見られる。
 身近な例では、メダカや金魚などの小魚を水槽の中で多数飼っていると、とくに小さな個体や弱い個体、特徴のある個体が、仲間からつつき回されて死んでしまうのを目撃したことがある人は多いだろう。
 また、自然や野生生物を紹介するTV番組でも、似た例を目にする機会は多い。
 群れを外敵から防衛するため、あるいは群れの内部の均衡を保つため、こうした行為は起こる。
 同様に、人間にも原始的な「本能」や「感情」として、いじめや差別を起こす仕組みが身体に組み込まれているのだろう。
 外敵や飢餓と常に隣り合わせであった原始社会では、こうした「異物排除」にもそれなりの必要性があったかもしれない。
 しかし、日常生活から一応そうした物理的な危険が遠ざけられた文明社会においては、いじめや差別が正当化される合理的な理由は存在しない。
 いじめや差別は、おそらく「本能」とか「感情」に根差しているので、それを根絶することは難しい。
 誰しも簡単なきっかけで加害者にまわるし、巡り合わせで被害者にもなる。
 もっともらしい理由は後付けでいくらでもつくが、本当は大した理由などなく、単に些細な差異が目につき、本能が刺激されたというだけにすぎない。
 異物排除の本能は、近似した個体が狭い空間に多数収容されたときによく発現する。
 学校の教室などはその好例だし、もっと言えば日本の社会がそうした傾向を持ちやすい。
 本能に根差した感情を発生段階から抑え込むことは不可能だが、自分の心にふと湧き出たいじめや差別を、理性で分析し、制御することはできるはずだ。
 学校教育の現場でもいじめに対する取り組みは本格化しつつあるが、いじめや差別を単純に「あってはならないもの」としてしまうと無理が生じるのではないだろうか。
 
 歴史的に見ると、こうした本能を統治する側が上手く利用したのが身分制や排外主義ではないかと思える。
 自分の身体の中にどうしようもなく存在する「本能」を、醒めた目で見つめる技術が、今求められている。
posted by 九郎 at 00:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする
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