昨日、かつて師と仰いだ人の訃報があった。
ちょっとまだ心の整理がついておらず、何かの間違いであってほしいのだが、ともかく今の心情をなんらかの形で吐き出さずにはおれない。
Nさんと交流があったのは90年代のこと。
私が勝手に「弟子」を自認していただけなので、別に形式張った付き合いではなく、世間的には「事務所の社長と、古参のバイト」という関係だった。
Nさんとは二十才以上年齢差はあったが、絵描きで演劇経験者、山好きなどの経歴に共通点があり、その他にも趣味嗜好、体格などで似たところがあった。
私の方はなんとなく「都会でたまたま出会った同じ部族の出身者」というような気分があり、たぶんNさんも同じように感じていたのではないかと思う。
変わり者を面白がって、色々連れ回してもらった。
酒の席でNさんとの関係を聞かれ、冗談半分本気半分で「弟子です」と答えたことがある。
Nさんは「なんの弟子なんや?」と笑っていた。
酔った勢いで口走ってしまっただけの私は即答できず、「なんの弟子なんでしょうね?」と頭をかいた。
技能的な面では景観イラストの描き方を教わったのが一番大きいけれども、Nさんから学んだものはもっと幅広い。
地図・地形の読み方、都市計画、風水の考え方などを、私はバイトの仕事内容を通じて「門前の小僧」として聞きかじった。
元々興味のあった沖縄や熊野に関する仕事も多く、事務所の本棚に並ぶ書名をたよりに読書を進めたりした。
事務所にはデカい泡盛の甕が鎮座していて、夕方頃からは一杯やりながら仕事をすることもけっこうあった。
飲みながら芸能や民俗に関するあれこれを聞かせてもらうのが好きだった。
事務所の仕事内容と重なりつつも、ちょっとずれたところで教わることが多かった。
断続的にではあるけれども、Nさんのものの考え方や佇まいを、けっこうな期間「面受」できたことは、得難い経験だったと思う。
そうした甘美な時間は、もちろんこの「縁日草子」の源流になっている。
あれは確か、阪神大震災から一年後くらいのことだったと記憶しているが、Nさんに「一緒にボルネオに行かんか?」と聞かれたことがあった。
今から考えると万難を排して付いていくべきだったと思うのだが、当時の私は震災その他で精神的に最も過敏になっていた時期で、海外の冒険旅行に出掛ける余裕がなかった。
まだ若かった私は「また機会はあるやろ」と気楽に考えていたせいもあって断ってしまったのだが、Nさんにしてみれば時間的にも体力的にも、残り少ないキツい旅行のつもりでお伴に誘ってくれたはずだ。
今になってみると、その心情がよくわかる。
2000年代に入ってからはバイトを「卒業」し、Nさんと直接会う機会も少なくなった。
もう五年ほど会っていないはずで、そろそろ顔を出しておこうかと思っていた矢先の訃報だった。
もし今もう一度「なんの弟子なんや?」と聞かれたら、「ものの観方です」と答えたい。
もし今もう一度旅に誘ってもらったら、二つ返事でついていきたい。
しかし、その機会はもうない。
2015年01月07日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック