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2015年05月28日

マンダラ 何を観たいか描きたいか

 自分で描くならどんなマンダラにしたいか?
 この自問の答えは、すなわち「自分はどんなマンダラが観たいか?」という願望とイコールになる。

 せっかくアナログで描くなら、ある程度の大きさは欲しい。
 マンダラと相対した時、自分の視界がマンダラで占められて、視覚情報が「実体験」となるには、少なくとも100号キャンバスくらいの大きさが必要だ。
 絵の観賞を「実体験」とするためには作品は大きいほど良いが、諸条件により自ずと限界はある。
 日本の両界曼荼羅には4メートル四方ほどもある作例も存在するが、個人で描き、個人で所蔵し、個人で観賞することを前提とするなら、あまりに大きなサイズは現実的ではない。
 たとえば六畳間くらいの部屋を想定すると、作品を立てて適当な観賞距離をとれるサイズはやはり100号キャンバスあたりが上限になってくるだろう。
 F100のサイズはおよそ162cm×130cm。
 私のフェイバリットである「伝真言院曼荼羅」が縦183.6cm、横164.2cmなので、一回り小さいサイズにあたる。
 描写密度の点でも、間延びさせずに描き込むにはこのくらいが適当だ。

 画材はアクリル絵具になるだろう。
 アナログ画材の中では、私がもっとも使い込んでおり、耐久性もある。
 伝統的な手法に従えば、日本画の画材を使うことになるだろうけれども、「私」が「今生で」描き切ることを前提とするなら、あまり使ったことのない画材を一から学び直すのは現実的ではない。
 そもそも日本密教の曼荼羅図像を、そのまま忠実に模写できるような技術的、性格的な適性は、私には無い。

 果たして何が正解なのか? という問題もある。
 たとえば日本の両界曼荼羅は「伝真言院曼荼羅」を出発点としていて、後代になるほどサイズは大きく、描写は細密になっていくけれども、私の感じる「作品の生命力」という点では右肩下がりになっているように思う。
 もっと言うなら、たとえば日本の胎蔵曼荼羅は必ずしも「大日経」の記述通りにはなっていないし、比較的記述に沿っていると思われるチベットの胎蔵曼荼羅は、日本のものと印象が全く違う。

 せっかく自分で描くなら、自分で納得した世界を再現したい。
 あくまで「絵画としての納得」であり、「教義上の正確さ」ではない。
 胎蔵曼荼羅なら胎蔵曼荼羅を、その構造や思想はベースとしてがっちり押さえながら、やや抽象表現も交えてキャンバスの上で構成する。
 仏尊のイメージは、私の好きな古い曼荼羅図の「素朴でラフな表現」を、自分なりに消化したものとしたい。
 もしかなうなら、描き上げたマンダラを前に、照明を落として灯明を点し、心ゆくまでぼんやり眺めたい。

 このカテゴリの目標は、そのあたりになるだろう。
posted by 九郎 at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | マンダラ | 更新情報をチェックする
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