2015年10月30日

上人窟 その後

 和歌浦の蓬莱岩のことを書いて、近場の「上人窟」のその後の情報を思い出した。
 忘れないうちにメモしておこう。

 この岩窟のことは、以前一度記事にしている。
 当ブログの主要な探求テーマの一つに、織田信長と本願寺の戦国頂上決戦「石山合戦」がある。
 その石山合戦終結時、大坂本願寺を退去した教如が、雑賀衆の元に身を寄せた際に隠れたとされるのがこの岩窟で、一応現存しているらしい。
 史実であれば、近所の鷺ノ森に移転した本願寺には義絶されていたため入れず、やむなく雑賀衆の庇護を受けながら隠棲していたということなのだろう。
 何度か行ってみようとトライしたのだが、近年は岩窟へと続く道が台風で崩落してしまった模様。
 以前は雑賀崎にある観光灯台から降れたようなのだが、ここ数年はいつ行っても入口が閉鎖されたままだ。
 それならばということで、海側から登ってみようかと試したこともある。

waka-34.jpg


 おそらく上掲写真の丸印のあたりに「上人窟」はあるはずだ。
 遠目には通路らしきものも見えるので、なんとかよじ登れないか堤防を越えてみると、こんなことが書いてあった。

waka-35.jpg


 ……いろんな意味で怖い。

 当方としては入場料を払って見学したいと思っているのだが、どこに話を持っていけば良いのかわからなかった。
 そしてその後、写真の赤丸印の上にチラッと見えている雑賀崎灯台を再訪した折りに、ようやく管理人さんに直接会うことができた。
 確認してみたところ、依然として岩窟への通路は崩落したままで、今は近づくこともできないそうだ。
 場所は丸印で大体あっている模様。

 岩窟には行けないけれども、それがどんな場所であるかは、灯台下の漁港側から眺めれば想像できる。
 およそ人間が快適に暮らせるような場所ではない。
 教如上人はこの岩窟を含め、かなりの期間、流浪の生活を続け、辛酸をなめ続けている。
 
 このような経験を重ね、教如上人は父・顕如上人とはまた違った形で鍛え上げられ、強力なリーダーへと変貌していったのだろう。
 両者の性格の違いは、はるかに時を経た東西両本願寺の在り方の違いにまで影響を及ぼしているのではないかと感じることもある。

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posted by 九郎 at 22:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする
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