耳元で響く金属音と、身体が重く不自由であることに加え、自分とは違う何者かの気配を感じることもあった。
自分が陥っている「金縛り」が、その気配の主の仕業ではないかと感じられ、かなり恐ろしい体験だった。
ただ、それ以上のこと、たとえば幽霊の姿を見たり、声を聞いたりするような、はっきりした「霊現象」までに至らなかったのは、幸運なことだったと思う。
医学的には色々説明がつき、ことさらに怪奇現象扱いする必要はないのだろう。
ぶっちゃけ私はオカルト趣味があるけれども、それはあくまで趣味であって、本気で信じているわけではない。
神仏与太話と銘打ったブログを運営しながら、オカルト趣味があり、しかし本気で信じているわけでもなく、スピリチュアル嫌いと言うと、かなり分裂した分かりづらい立場であると思われるかもしれないが、自分の中ではあまり矛盾はない。
世に不思議はある。
一見不思議に見えても、そのほとんどは合理的に説明がつく。
しかし、合理では割りきれない部分も確かに残る。
そのグレーゾーンを、性急に結論付けずにちまちま楽しむ。
虚実の狭間で時に信じ込みそうになったりするのを自ら笑うのが、私のオカルト趣味なのだ。
プロレスを楽しむのと同じ位相でオカルトを楽しんでいると書けば、私のスタンスを理解してくれる人も多いだろう。
金縛りや、後に述べる「幽体離脱」についても、そうした「体験」自体は自分のものとして確かにあるので、否定しない。
それらは基本は合理的な説明がつくものだけれども、実際に体験している最中に、冷静な判断力は持てないないし、何の役にも立たないことが多い。
そこで、趣味としてのオカルトの出番が回ってくるのだ。
2016年01月05日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック