今年映画化された作品。
映画タイトルに合わせて「エヴェレスト」と改題された文庫本を書店で見かけたという人も多いだろう。
ジャンルは「山岳小説」である。
私も本格的な登山というほどではないが、熊野遍路等の機会に多少は山に登る。
好きな作家であり、興味のあるジャンルなので、いずれ読もうと思って、十年くらい前に文庫本は手に入れていた。
読めばとんでもなく面白いことは分かっていたが、何せ極厚上下巻、原稿用紙で約千七百枚の作品である。
どうせなら良いタイミングで作品に没入して一気読みしたいと思うと、中々手を出せないでいた。
映画化の報があり、グズグズしていると見たくないタイミングでネタバレ情報に接してしまう危険が出たので、今年に入ってからようやく追い立てられるように読んだ。
この作品は「山岳小説」としては直球ど真ん中、世界最高峰エヴェレスト登頂をテーマにしている。
それも生身の人間としては最も過酷な「南西壁冬季無酸素単独登頂」という条件を設定している。
実際に生きた人間の可能性の限界ぎりぎりのルールであり、これより半歩でも踏み越えると小説の「リアル」は崩れてしまう。
夢枕獏は、こうした「作品内のリアル」を創り出すための条件設定の達人である。
リアルを志向しないファンタジー作品であっても、「作品内のリアル、整合性」を構築するために、常に細心の注意を払っているように見える。
どうせ小説なんだからというような妥協は一切ないという信頼感があり、だからこそどの作品も安心して手に取ることができるのだ。
主人公は、考えうる限り最も高く過酷な登頂を目指す男、羽生丈二である。
その「世界最高峰の物語」まで、あらゆる読者、とくに普段山に関心を持たない読者までも引っ張り上げるために、序盤から作者の手練は存分に発揮される。
物語の視点はまず羽生本人ではなく、彼を追う山岳写真家を通して描き起こされる。
体力的に超人ではない、しかし山の素人でもない「記録者」が、エヴェレスト登頂にまつわる、あるミステリーに巻き込まれることから、物語は始まるのだ。
導入部分はミステリーであり、アクションである。
そこに、ある程度の年齢の男性なら誰もが向き合う「志」と「現実」のギャップの物語が重ねられる。
様々な欲や夢を諦め、あるいは諦めきれない男の苦しみ、切なさが綴られる過程で、満を持して「諦めなかった男」羽生丈二が登場するのだ。
地上で最も過酷な登山を目指す男というのは、それ自体が登頂困難な「山嶺」だ。
読者が初めから感情移入するのは難しい人物であり、モチーフである。
その高みまで広く一般の読者を引きずり上げるため、作品序盤には幾重にも網が張り巡らされている。
そして一度引きずりあげられた読者は、物語後半にはただただ「最高峰に登る」という、他のすべてを振り捨てたシンプルなモチーフに没入できる至福の読書体験を持つことになる。
そしてその物語の果てには、読者にはそれぞれが取り組むべき未踏峰があるはずだという問いかけが、余韻となって残されるのである。
得意とするSF伝奇の要素を排除した、作者渾身の堂々たる「山岳小説」だと思う。
今年ようやく初めて読んだけれども、今後もまた折に触れ、再読することになるだろう。
●「神々の山嶺 上下」夢枕獏 (集英社文庫)
同作品が映画化に合わせて改題され、合本になったもの。
●「エヴェレスト 神々の山嶺」夢枕獏(角川文庫)
2016年12月19日
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