これまでに何度か書いてきたけれども、「日本の伝統」としてなんとなくイメージ的に受け入れられているものの多くは、実際はさほど「古来」のものではないことが多い。
たとえば「日本武道」ということで考えると、その代表のように考えられる柔道や剣道が現在のルールで試合が行われるようになったのはせいぜい戦後のことで、目一杯遡っても明治以降にしかならない。
江戸時代とそれ以前でも、時代によって「武」の在り方はそれぞれ違う。
だから教育現場で「武道」が必須になったところで、それで「古来の日本の伝統」が身に付くわけではない。
現代の柔剣道は分類するなら「スポーツ」で、指導者の意識も西欧流のスポーツの在り方が基本になっている。
むしろ日本流に悪くアレンジされ、非科学的な精神論の横行する劣化スポーツに成り果てているケースも多いのだ。
日本古来の信仰とは何か?
この答えも一つではない。
歴史上のどの時点をスタンダードとするかで様々な考え方が可能だ。
一応「記紀神話」が日本古来のものとされることが多いが、それは近世になって以降の、国学〜復古神道〜国家神道という一連の流れをくんだ発想だ。
純粋な本来の神道というものが、歴史上のどこかの時点に存在したわけではない。
事実だけ視るならば、古事記・日本書紀は成立当時有力だった各氏族の伝承を(かなり政治的に)集大成した「その時点での創作神話大系」だ。
宗教、宗派に関わらず、改革や中興が行われる時にはしばしば「復古運動」の形が取られる。
しかしそれは、一種のフィクションでしかない。
実際の庶民の信仰では雑多な神仏習合の時代の方がはるかに長いし、長さだけで言うなら記紀よりはるか以前から続いたアニミズムこそが「本来の姿」ということになる。
国家神道などは「きわめて短期間で破綻した近代日本の新興宗教」でしかなく、史実ではありえない神話を現実の天皇制に仮託して強引に「復古」し、その結果国を滅ぼした官製カルト宗教だと言う見方だってできる。
ところがこの日本史上最悪のカルト宗教を、復活させようと目論む勢力がある。
しかも、現政権構成員の大半がこの勢力の影響下におかれている事実がある。
カルトが布教する際の常套手段として、「最初は口当たりのよいマイルドな入り口を用意する」という手口がある。
ヨガサークルであったり、「聖書の勉強をしてみませんか?」等の、一見問題なさそうな、いつの時代も一定の需要のあるテーマで勧誘し、徐々に内容をすり替えていくのだ。
国家神道や明治憲法等への戦前回帰を目論むグループの場合、表面上は「日本の伝統を大切にしましょう」とか「皇室を敬いましょう」等の、抵抗の少ないテーマを表看板として掲げる。
教育現場の「武道必須化」も、こうした流れの延長線上にあるとすれば、注視が必要である。
●「日本会議の研究」菅野完(扶桑社新書)
●「日本会議の正体」青木理(平凡社新書)
●「日本会議 戦前回帰への情念」山崎雅弘(集英社新書)
●「国家神道」村上重良(岩波新書)
●「愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか」中島岳志,島薗進(集英社新書)
2016年08月20日
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