9月になった。
月があらたまったからと言って、気候がガラッと変わるわけではない。
暑さ涼しさが少々行ったり来たりしながら、季節は徐々に移ろう。
それでもやっぱり、気分的には何かが変わる。
とくに8月が終わると、「夏休みが終わってしまった」という子供の頃からの刷り込みがあって、もうとっくに大人になっても抜けきらない。
それなりに夏を楽しんだはずなのに、何かやり残したような、やりたかったことの半分もできなかったような切なさが残る。
口の中でキャンディーをころがすように、そんな切なさを味わいながら、ぼちぼち秋に向けて着地していく。
ふと思い出したことがある。
以前、子供向けに夏休みの絵画、工作の指導をしていたときのこと。
その教室では、休憩時間に軽くおやつをたべたり、本を読んだり、おりがみや昔遊びのおもちゃを楽しむことになっていた。
教室に来ていた幼児の中に一人、砂時計が大好きな男の子がいた。
その日もその子は、ガラスの中を砂がさらさらと落ちるさまを、熱心に眺めていた。
ときどき「ニヤッ」と笑いながら何かブツブツ言っているのに気づいて、ちょっと聞き耳を立ててみた。
すると、今にも砂が落ち切りそうなタイミングで「ウケケケケ……」と笑いながら、
「人生おわるで〜」
とつぶやいていたのだ。
思わずブッと吹き出してしまった。
さらに観察してみると、落ち切った砂時計をもう一回ひっくり返して、何度も人生(?)を楽しんでいるようなのだ。
たまに、砂時計の下の方にあまり砂が落ちていない段階でひっくり返して、
「あ”あ"〜〜〜〜〜!」
と悲鳴を上げたりしている。
理不尽な「人生のおわり」に対する心の叫びだろうか?
しかも自作自演!
幼児はたまにこういう怪しい妄想一人遊びをすることがある。
自分を振り返ってみても、色々おかしな妄想を抱いていた覚えがある。
独特の宇宙観になっていたりする場合もあるので、機会があれば観察したり、子供の話を聞いてみたりするようにしている。
子供の宇宙
幼い子供が無心に遊ぶのを眺めるのは楽しいものだ。
私が好きな「梁塵秘抄」の一節に、こんな唄がある。
遊びをせんとや生れけむ
戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば
我が身さえこそ動がるれ
(梁塵秘抄より)
当ブログ「縁日草子」の、実質第一回目の記事にも引用した、思い入れのある唄だ。
遊ぶ子供の声にそっと耳を傾け、身も心も揺さぶられているのは誰なのか?
主語は省略されているので、また色々と妄想が広がる。
その主語の部分を、宇宙大の母の視線で読み替えたようにも見える、不思議な創世神話を紹介したこともある。
カテゴリ「泥海」
夏休みが終わったタイミングで、幼児の「人生砂時計遊び」を思い出したのは、偶然ではないだろう。
あたふたしているうちに夏休みは終わってしまうし、下手すると人生だってあっと言う間に終わる。
たぶん夏休みと同じように、やりたいことの半分もできなかった切なさと、まんざら捨てたものでもなかった記憶を愛でながら、終わる。
人生が夏休みのようなものならば、私の場合、なるべく悔いを少なくする術は、一応知っていることになる。
ありがたいことだ。
2016年09月02日
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