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2016年09月04日

フェイクがどうした!

 よく読ませていただいているブログで、少しだけ「ガルーダ」が話題に上った。
 遠い記憶がよみがえってくる。

 ああ、ガルーダか……
 あれはショックだったなあ……

 ここでいうガルーダは、インドネシアなどの鳥の神様のことではない。
 70年代テレビアニメ「超電磁ロボ・コンバトラーV」に登場する敵役のことだ。
 今ではこの種のエンタメ作品の定型になった「主人公のカッコいいライバル」の、元祖みたいな登場人物だった。
 最終回近くに、実は自分が、母だと思っていた主人に作られた精巧なアンドロイドで、自分以外にも数々の試作品が存在したことを知る。
 自分が単なる道具に過ぎなかった事実に、強い衝撃を受ける。
 
 ……というような設定内容を、今回記事を書くにあたってネットで確認しつつまとめてみた。
 私がこのアニメを見たのはたぶん再放送で、まだ幼児に近い年齢だったのではないかと思う。
 四十年前の作品だが、だいたい記憶している内容と一致していた。
 己がフェイクであったと知った時のガルーダの絶望。
 幼い視聴者にとっても、それはかなりショッキングなシーンだった。
 ガルーダがその絶望を越えて、戦いの中に存在意義を見出していく心の動きは、「自分」とか「存在」とかに関わる、けっこう哲学的で高度な感情表現ではないだろうか。
 それを幼児に近い年齢の子供に、わりと正確に伝達してしまうのだから、日本のテレビアニメというのはやっぱり大したものだったんだなと思ってしまう。

 この「自分の存在や感情がフェイクだと知った喪失感」というモチーフは、他の作品でも形を変えてよく扱われる。
 実は自分が誰かのクローンであったとか、偽の記憶を刷り込まれていたとか、いつの間にかマインドコントロールを受けていたとか、もっと規模が拡大すると自分の認識しているこの世界そのものがバーチャルなものではないかいうパターンは、とくに思春期あたりに鑑賞すると、一部の少年少女にとっては過剰に「心に突き刺さる」場合がある。
 最近の表現だと「中二病」と言ったりするようだが、絵や文章や音楽など、何かものを作ろうとする中高生には必ず存在する傾向だ。
 うまく表現や仕事、生き方に結び付けて飼いならせれば良いけれども、こじらせると少々厄介な傾向でもある。

 自分の生きるこの世界、そして自分自身が幻ならば、そんなフェイクはもうたくさんだ。
 さっさと滅びてしまえばいい。
 中二病をこじらせるとそんな風に短絡しがちだ。
 終末論などのリセット願望は、そうした短絡と結びつきやすい。

 自分という存在や感情が、実は幻のようなものではないかという感覚は、新しいものではない。
 例えば仏教では昔から繰り返し説かれてきたことだし、かなり物語的な設定もある。
 私たちが住む須弥山世界の上空には魔王がいるという。
 魔王は欲界の衆生が生み出す様々な欲望や快楽を、自分のものとして自在に楽しむことが出来るとされる。(私はドラえもん世代なので、こういう話を聞くと「おすそわけガム標準装備?」とか、ついついアホなことを考えてしまう)
 衆生が快楽に囚われていれば、魔王はそれだけ自分が楽しむことが出来る。
 この世は魔王の娯楽であり、餌場なのだ。
 だから欲界からの脱却を説く仏道修行を敵視して、様々な妨害を行うという。
 お釈迦様の悟りを開く直前、誘惑を仕掛けて退けられたとも伝えられる。
 輪廻転生の中で魂を進化させ、須弥山を垂直方向に上り詰めても、そこに待っているのは快楽の魔王の世界なのだ。
 そんな世界からはもう抜け出せと、仏は説く。
 まだその世界にとどまるならば、衆生済度の菩薩になれと説く。

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 何代か前のスーパー戦隊シリーズに「侍戦隊シンケンジャー」という作品があった。
 ずっと観ていたわけではないが、たまたま最終回近くの二、三話を観ていたら、ちょっと面白い展開があった。
 この作品は戦隊リーダーにあたるレッドが「殿」で、他のメンバーが「家臣」であるという点に特徴があったのだが、ラスト近くになって突然、今まで主人公であった「殿」が、実は影武者であったということが判明する。
 本物の「殿」が最終回も近くなってからいきなり現れ、交代を迫るという、無茶なちゃぶ台返しである。
 同時に、例の「自分という存在がフェイクだったら」という、あのパターンも同時進行ですすむことになるので、どうなることかとハラハラしながら、久々に子供番組に見入ってしまった。
 結局、影武者レッドは「本物」と養子縁組し、晴れて「殿」になるというウルトラCで問題は解決される。
 あまりの展開に、思わず声をあげて笑ってしまった。

 笑いながらも、実はちょっと感動もしていた。
 自分という存在は、その来歴がフェイクであるかどうかに関係なく、役柄を全うできるかどうかにその本質があるのではないか?
 少々難解なテーマを、物凄く端的に、それこそ子供でも理解できる形で示された気がして、「この脚本、只者じゃないな」と思った。
 ガルーダからカウントして30数年、子供向けのエンタメ作品の中で繰り返し語られてきた、やや深刻なモチーフが、ついにこれほど軽やかにクリアーされる時代になったかと、感慨深かったのだ。
 
 こじらせた中二病の治療のカギは、ここらあたりにあるんじゃないか?
 そんなことを考えながら、久々に戦隊モノを最終話まで追ったのだった。
posted by 九郎 at 23:07| Comment(2) | TrackBack(0) | 縁日の風景 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ガルーダからここまで深い話が展開するとは!
仏教世界からシンケンジャーまで硬軟取り混ぜた世界を自在に遊ぶのはさすが、とおもしろく拝読しました。

鷹は社会性のある動物ではないので犬のようには訓育できない、という話を、放鷹をやっている知人がら聞いたことがあります。

だから鷹を仕込む際にはその本能を理解して鷹が「自発的にそうしたくなるように」しむけていくのですが、してみると犬が人に、人が犬に、人が人に向ける愛情は本当は本能がそうさせているだけではないのか、と、九郎さん曰く「自分の存在や感情がフェイクだと知った喪失感」に似た感情にとらわれたのを思い出しました。

今もたまに考えることがありますが、思いがけないところで前進への一歩に出会えた気がします。
Posted by 井上渉子 at 2016年09月09日 09:37
井上渉子さん、コメントありがとうございます。

鷹のお話し、興味深いです。
たまに美術系の進路相談を受けることがあります。
美術系志望の中高生というのは、群れの本能が欠落した一匹狼タイプが多くて、中二病のたまり場みたいになりがちです(笑)
接し方にはけっこう気を遣うのですが、鷹に対する扱い方は参考になりそうですね。
Posted by 九郎 at 2016年09月10日 10:21
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