年末年始あたりから、時間を見つけては延々と描き続けている絵がある。
100号キャンバスにアクリル絵の具で、久々に完成させられるかもしれない大型のアナログ作品だ。
もし完成まで持っていければ、私が求めてやまない完全燃焼が見込める作品でもある。
果たして本当に完成できるかどうかわからないけれども、現時点までは調子よく筆が動いてくれている。
できることならこの機を逃さず描き上げたい。
そのために、できることはやっておきたい。
私は絵描きのハシクレではあるけれども、絵だけ描いて生きていける身分ではない。
生きるためには、色んなことをしなければならない。
しかし、それはみんなそうだ。
私のようなハシクレでなくとも、絵描きの多くは生きるために絵を描く以外のことも、懸命にこなしている。
それなりに高名な画家の先生だって、この日本という文化芸術に冷淡な国にあっては、作品だけで食っている人はほとんどいない。
絵描きというものは、本質的に社会的な諸々のお仕事は苦手だけれども、自分なりの方法でどうにかこうにかこなしながら、執念深く絵だけは描き続けている。
私は私のやり方で、絵を描く時間と体勢をひねり出さなければならない。
大きなサイズの作品を、完全燃焼できるテンションで描き上げるには、ある種の「変身」が必要だ。
普段の私は、最低限人の話は聞くし、謙虚に勉強もする。
様々なタイプの他人の考え方、感じ方をできる限り尊重するし、あまりわがままを言わないよう、自我を抑える。
世間様と折り合うためには、それはごく当たり前の作法だ。
しかし、そうした普段の意識では、大きな絵は描き上げられない。
完全燃焼の作品を完成させるには、わがままでなければならない。
唯我独尊でなければならない。
他人の意見や感覚など糞喰らえ。
世界中を敵に回しても、平然と、自信満々で描かなければならない。
信じられるのは自分の眼と手だけでなければならない。
狂っていなければならない。
イカれていなければならない。
真正の天才の多くは、そんな絵描きとしての狂気と心中し、作品だけを残す。
しかし幸か不幸か、私には「絵で死ぬ」ほどの才はない。
他のこともこなしながら、描き続けて生きたい。
だから物わかりの良い普段の意識は大切にしながらも、作品に向かう場面だけは、唯我独尊の絵描きの意識に「変身」しなければならないのだ。
ところが、私はあまり意識の切り替えがうまい方ではない。
日常生活からキャンバスに向かうまでに時間がかかるし、絵の具を用意して最初の一筆を加えるまでに、かなり意識調整が必要だ。
他の誰向けでもない、私だけの絵の描き方。
決して一般化できない、妄想絵画論。
意識調整を兼ねて、思いつくままにこのカテゴリで書き留めておきたい。
2016年09月10日
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