他の誰向けでもない、私だけの絵の描き方、考え方。
決して一般化できない、妄想絵画論。
続けてみよう。
絵描きの中には、白いキャンバスを目の前にすると自然にビジョンが見えてきて、自分はそれを写すだけというタイプもいるという。
たとえばマンガ家の永井豪はこのタイプで、幻視した映像を元に描いている作品が多数あるそうだ。
幻視の頻度にもよるだろうけれども、このレベルの「才」になると、日常生活に差し障りが出ることもあるだろう。
幻視に呑みこまれ、生きることが難しくなった絵描きのエピソードは数多い。
「才」の大きさは、「差異」の大きさと同じことなのだ。
絵描きは多かれ少なかれ幻視の才を持つが、私のレベルでは日常生活の中で「何かが視える」ということはほとんどない。
生活にとくに変わったことはないけれども、ごく稀にチラッと「何か」が垣間見えるということはある。
日常生活は地味なものなのだが、夢の中ではかなり「視る」方ではないかと思う。
普段は抑えられている幻視が、夢の方で解放されているのかもしれない。
怪しいイメージの訪れが夢に限定されているおかげで、日常生活はまずまず問題なく送れている。
集中して作品制作している時期には、夢の中で続きを描いてヒントを得るということもあり、そんな時期には、ぼんやりと反応が鈍いことが多い自覚というはある。
それでも仕事で支障が出るほどのことはない。
結局、自分の人生においては、この程度の「差異」がほど良かったのだなと、今は納得している。
普通の生活をそれなりに味わえているし、時間は限られるけれども、絵描きも続けていられるのはありがたいことだ。
大きすぎない、このくらいの才だからこそ、できる表現も確かにあるのだ。
2016年10月02日
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