画家やマンガ家や作家でも、またはミュージシャンでも良いのだが、とくに男性表現者の作品を鑑賞するとき、私がよくやるものの観方がある。
最初にことわっておくと、あまり論理的な分類ではなく、私の個人的で、ごく感覚的な観方である。
作品内で「心の中の友だち」と「心の中の恋人」の要素に注目すると、タイプが理解しやすいのではないかと思うのだ。
男性表現者の作品に登場する、魅力的な「友だち」のイメージと「恋人」のイメージを比べてみる。
多かれ少なかれ、どちらの要素もあるのが普通だが、どちらが優勢かでタイプ分けすると、なんとなくつかめてくるものがある。
例として、著名な表現者を私なりに分類してみよう。
感覚的なものなので、他の観方もあると思うが、まずはご一読。
手塚治虫の場合、ロックに代表されるちょっと悪くて魅力的な「友だち」の要素もあるけれども、基本的には「恋人」に重点があるのではないかと思う。
永井豪の場合、やはりどちらの要素もあるけれども、最終的には「友だち」が優勢になるのではないか。
大友克洋や荒木飛呂彦の場合は、「恋人」がほとんど存在しなくて、ひたすら「友だち」のイメージが追及されている印象がある。
少年漫画の世界に「友だち派」が多く集まるのは、まあ自然なことだろう。
我が敬愛するSF作家・平井和正の場合、元来は「恋人」が根幹にあるけれども、後天的に「友だち」も強くなっていった気がする。
マンガ「GANTZ」の奥浩哉はその逆で、元々は「友だち」の作家だったのが、研鑽で「恋人」も描けるようになったのではないかと観ている。
画家のピカソの場合は、絵のモチーフは「恋人」が優勢だが、あまり恋人や女性に向けて描いているようには感じられない。
なんとなく「どこか遠くにいるはずの、自分を理解してくれる友だち」に向けて、絵を描いているような気がする。
岡本太郎にも似た感じを受ける。
二人とも子供時代から傑出し過ぎていて、対等に遊べる友だちがいなかったせいではないかと妄想してしまう。
各表現者の創作衝動の根っこの部分が、思春期以前にあるか、以後にあるかでも分かれそうだ。
思春期以前の場合は「友だち」が優勢になり、思春期以後の場合は「恋人」が優勢になるのではないだろうか。
私の場合は完全に「友だち派」なので、やはりそちらの要素の強い作品、作者に惹かれることが多い。
そう言えば、そのものずばり「心の中の友だち」という歌を作ったどんとも、どこか遠くにいるはずの友だちに向けて、ずっと歌い続けていた。
2016年09月15日
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