先月、映画「シン・ゴジラ」を観てあまりの面白さに感心し、記事にも書いた。
一部引用してみよう。
-----(8月14日記事「虚構の中にはせめて希望を」より)---------------
ゴジラは、60年前の初代から「核」であり、「放射能」であり、「アメリカの生んだ奇形生物」であり、台風のように、火山のように、地震のように、津波のように、そして原発事故のように、日本に突然現れ、破壊の限りを尽くす怪物だった。
作中のゴジラと悪戦苦闘する日本の官僚や政治家は、一人一人の無力さが非常にリアルなのだが、タカ派もハト派も、保身に長けた調整派も、組織に馴染めない変わり者も、「最後は日本のため、国民のために尽くす」という一線は崩さない。
その一点において、非常にファンタジックな作品であるとも言える。
残念ながら、現実の政治家や官僚が、実際の緊急事態にその一線を守ってくれそうもないことは、3.11後の日本の大前提になってしまっているのが、なんとも悲しい。
そうした悲惨な現状を踏まえてなお、せめて虚構の中だけでも「リアルに映る希望」を語れるところが、90年代に一度「エヴァ」で破滅を吐き出し尽くした庵野監督の成熟度なのではないかと思う。
-----(以下略)----------------
あとで調べてみると、同様の観方をするレビューはけっこう多かった。
その一方で、正反対の観方をしているレビューもあった。
作中で政治家や官僚、自衛隊等が無批判に称揚されていて、新手の国策映画ではないか?
これはサブカルチャーの政治利用ではないか?
と言うようなレビューだ。
なるほど、そんな観方もあるのかと思った。
確かにこの夏街中で、自衛隊のポスターに今回のゴジラが使用されているのを見かけたときは、少し違和感を持った覚えがある。
少し考えて、しかしそれは映画の客の理解力をバカにし過ぎていないかと思った。
気になったのでネットでシン・ゴジラにまつわるやり取りを流し読みしていると、どうやらそうでもないらしいと分かってきた。
私のように今回のゴジラから「一回捻った官僚批判」を読み取るためには、3.11への国の対応に、かなり批判的な感覚を持っている必要がある。
私にとってそれは議論するまでもない自明のことなのだが、世の中には一定数のそうではない人もいる。
福島原発の現状を「アンダーコントロールだ」と言われれば、素直に信じられる人々がそれにあたる。
そうした人々にとって、同じ映画「シン・ゴジラ」は全く正反対の内容に観える可能性は、確かにある。
サブカルの政治利用につながる可能性も、ないとは言えない。
果たして制作意図はどちらにあったのか?
多様に読み取れる作りで議論を百出させるのは、ある意味、庵野監督持ち前の「上手さ」ではないかとも思う。
映画「シン・ゴジラ」、まだまだ語られそうだ。
というわけで、カテゴリ「サブカルチャー」開幕である。
サブカルをネタにあれこれ与太話を繰り広げ、たまにはプラモやフィギュアの絵描きなりの作例もアップ。
さてどこまで風呂敷を広げられるか?
ぼちぼち行きますが、乞うご期待!
2016年09月16日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック