マンガ家が絶好調の時期、絵がかなり変化することがある。
連載初期と後期でまるで絵が違ってしまい、単行本でまとめ読みするとちょっと面食らうことがあるが、そのような作品こそ、凄まじく面白い代表作になることが多々あるのだ。
ちばてつやの場合でいうと、やはり「あしたのジョー」(1968-73)と「おれは鉄兵」(1973-80)が挙げられる。
連載初期の「あしたのジョー」は、それまでの子供向けちば作品のままに、わりとシンプルな線で描かれていた。
ところが、ライバルである力石を死に追いやった伝説の一戦前後から描線は飛躍的に密度を増していき、ラストのホセ・メンドーサ戦前あたりからは、どんな小さなコマ一つを切り取っても「絵」になっており、たっぷり感情がこもったキャラクターが描かれるという、奇跡のような高みにまで上り詰めている。
手練れの役者はさりげないシーンを演じながらも、そのシーンだけではなく役柄の日常生活まで感じさせる演技をするものだが、連載後期の「ジョー」の絵は確実にそのレベルまで到達していた。
世界に冠たるニッポンマンガ史上でも、これほどのレベルの神懸った描線に到達した例は、永井豪「デビルマン」最終巻など、ごく少数を数えるのみなのではないかと思う。
ちば作品の中では珍しく、「あしたのジョー」には梶原一騎(高森朝雄名義)の原作がついているが、他の「梶原マンガ」とは少し雰囲気が違って見える。
他の作品より、相対的にちばてつやの作風の割合が多いのではないかと感じるのだ。
梶原一騎の強烈な個性をねじ伏せ、「あしたのジョー」を他ならぬちばてつや自身の作品に見せているのは、一人一人のキャラクターを丁寧に掘り下げる執筆姿勢と、連載後期のあの切れ味鋭く濃密な描線あったればこそだろう。
一世一代の傑作と言うべき「あしたのジョー」完結後、ほとんど間をおかず「おれは鉄兵」の連載が始まる。
連載開始当初の「鉄兵」の、作品全体に漂うどこか寂しげな雰囲気は、ジョーと共に一度燃え尽きた作者の心象が反映されているのではないだろうか。
鉄兵や父親、中城、母親、妹などの主要な登場人物には、前作「ジョー」の登場人物の面影がちらちらと垣間見える気がしてならない。
マンガに限らず、作者が全力投球した作品の次作が、前作の雰囲気を引き継いで始まることはよくある。
直接の続編でなくても物語の基底部分ではつながっていて、前作のキャラクターのまだ鎮まりきらない魂が、こっそり作者に囁きかけるのだ。
登場人物の中でも、中城はなんとも不思議な存在だ。
序章と終章の「埋蔵金発掘」、中間の「剣道部での活躍」をひっくるめ、物語全編を通じて登場しているのは、鉄兵父子を除けば中城のみである。
初登場の中城はおそらく中三くらいの年齢で、鉄兵より一つ二つ年上だろう。
生い立ちなどは詳しく描かれていないが、孤児かそれに近い境遇であるらしく、「樅の木学園」という施設で生活している。
学校ではかなり荒れているようだが、孤独癖があり、不良グループ等には属していない。
一人で山に入って猟をしたり、骨董に興味を持つなど、物静かで大人びた一面も持っている。
施設で習った剣道はかなりの腕前で、名が知られているようだ。
心の飢えを満たすために打ち込める、数少ない表現手段になっていたのかもしれない。
当初は主人公・鉄兵のライバル役に設定されていたようだが、直接対決した回数は意外に少ない。
山小屋でのケンカと樅の木学園での練習試合、あとは東台寺学園剣道部での練習試合くらいではないかと思う。
施設で鉄兵に剣道を手ほどきしたあとは、父子が実家に帰還したこともあって、しばらく登場すらしなかった。
剣道部エピソードに突入してからの鉄兵は、剣道ルールの中では中城以上の強敵とまみえる機会が増え、やや対戦時期を逸してしまった感があった。
作中で最もページが割かれている「剣道」というテーマに鉄兵を誘い入れたのは中城だったが、最後は中城自身も剣道を中断し、鉄兵父子が率いる埋蔵金発掘チームに合流する。
ストーリーの進行とともに、絵柄は変わってくる。
週刊連載マンガの場合、絵柄が変わるのは作者が執筆にノッている証拠で、「ジョー」の時ほどではないが「鉄兵」での変化の度合いもかなりのものだ。
その変化はとくに主人公・鉄兵に強くあらわれていて、中盤の東台寺学園へ転校したあたりには、連載開始当初と別人のような顔立ちになる。
頭身は下がってややギャグマンガ調になり、太くつながった眉毛がトレードマークになっていく。
初期は「ジョー」の切れ味鋭くリアルな絵柄そのままだったのが、だんだん「まろやかな」と言おうか、親しみやすい絵柄になってきたのだ。
連載開始当初の鉄兵と中城は、孤児たちの物語である「ジョー」の構図をそのまま背負って登場したのではないだろうか。
前作「ジョー」では、孤児たちは拳で殴り合うことで対話し、お互いの存在を確かめ合っているようなところがあった。
そうした対話の燃焼温度を高めていくと、最後には「真っ白に燃え尽きる」ほか道はなかったのだろう。
少年から青年にかけては、そうした純度の高い結晶のような世界に心惹かれるものだ。
作者にとっても、このような作品が描けるのはせいぜい三十歳すぎくらいまでの青年期に限られる。
しかし物語から離れた現実世界では、人は年を取り、娑婆で不純物にまみれながらも生きていかなければならない。
もしかしたらちばてつやは「ジョー」執筆後の余韻の中で、孤児たちがぶつかり合いの果てに死に至らず、しぶとく生きていけるような作品世界を求めたのかもしれない。
作家的良心として「純度の高い死の物語」を世に送り出したままで済ませない、バランス感覚が働いたのではないだろうか。
連載開始当初の「鉄兵」で、どこか寂しげな眼差しをしていたキャラクターたちは、物語の進行とともにどんどん快活さを取り戻していった。
なんだかんだ言いながらも鉄兵や中城は、親やそれに代わる保護者、先輩、友人たちに恵まれたのだ。
物語終盤になって、鉄兵の父親と中城が静かに語り合うシーンがある。
さりげないけれども、とても印象深いシーンである。
このあたりで中城が最後まで背負っていた「孤児たちの物語」に、ひとまず決着がついたのではないかと思う。
読み進めながら「ああ、もうすぐこの作品は終わるんだな」という、静かな幕引きを感じたことを覚えている。
変遷の果てに「おれは鉄兵」で確立した柔和な絵柄は、包容力のある作風と共に、その後のちばてつや作品の基調になっていると感じる。
2016年10月28日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック