(カテゴリサブカルチャーにおいて、ガンダムについて語り続けている)
1979年放映のTVアニメ「機動戦士ガンダム」は、あくまで「子供向け」という建前を持つ作品だった。
TVアニメは当時すでに歴史を重ねており、子供時代を過ぎても視聴を続けるファン層は存在していたが、まだまだマニアックな部類だった。
なにせ「おたく」というカテゴリーがまだ生まれていなかった時代のことである。
ロボットアニメは玩具メーカーの提供番組であり、「おもちゃを売るための30分コマーシャル」という側面を、子供番組の宿命として持っていた。
そうした制約の中でも、作り手は商業と「ドラマ作り」を両立させようと奮闘し、数々の名作が生まれてきたのだ。
ガンダムが画期的であった点は様々にあるが、子供向けのロボットアニメの中で、局地戦である「battle」にとどまらない、政治・統治を含めた「war」が描かれた点は特筆されてよいと思う。
Battleとwarの違いについては、以前にもいくつかの記事で述べてきた。
battleとwar
漫画「センゴク」シリーズ
ガンダムのストーリーの骨格部分を私なりに要約すると、以下のようになる。
「宇宙移民の一部と地球連邦の間に勃発した独立戦争に巻き込まれた民間人の少年少女達が、緊急避難した連邦側の戦艦で、戦争終結まで従軍を余儀なくされたサバイバル・ストーリー」
作品内の尺は、視聴者である「子供」にも理解されやすいよう、局地戦であるbattle、それもモビルスーツによる白兵戦に多くを割かれている。
しかしそうした局地戦がどのような政治・軍事情勢の中で行われているかという点も、作品の端々で匂わされており、年長の視聴者がそうしたwarの領域を、想像であれこれ埋めるための材料が、各所にちりばめられていた。
宇宙移民の独立運動、カリスマ的なリーダーであるジオン・ズム・ダイクン、カリスマから権力を簒奪した政治家一族のザビ家、ジオンの遺児であるダークヒーロー・シャアの存在など、とくに「敵側」であるジオン公国には「政治劇」の要素がこれでもかとばかりに用意されていて、作品の表面にあまり表れなくても、実はストーリーの流れを裏から決定付けていたのだ。
だからこそ、放映からそろそろ四十年の節目が見えてきた今でも、いい年こいたかつてのガンプラ少年達が、「大人になってわかったこと」を語り続けられる作品になっているのだ。
TVアニメの中では表面上あまり描かれなかった「政治劇としてのガンダム」は、放送終了後発表されたいくつかの作品に、わりと濃密に描かれている。
まず挙げられるのは、放送終了直後に刊行された、富野監督自身の筆による「小説版」だ。
この小説については、いずれ機会をあらためて詳しく紹介したい。
そして近年の作品では、富野、大河原とともにガンダムの立役者である安彦良和によるマンガ作品「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」がある。
2011年に完結した作品だが、この作品のアニメ版(ちょっとややこしい……)が公開されたので、それに合わせて今年コンビニ版でも全編刊行された。
このマンガ版の特色は、原典になったTVアニメ版の空白部分、ジオンの家系とザビ家、ラル家の因縁が、「前日譚」としてがっちりページ数を割いて描かれている点だ。(今現在、順次アニメ化が進行しているのも、この部分である)
単行本では第9巻から6冊分くらいがそれにあたり、きわめて整合性をもちながら読み応えもある政治劇になっている。
この辺りはマンガ家として数々の歴史モノ、政治モノを手掛け、「大枠の決まったストーリーに血を通わせる」ことに熟達した安彦良和の持ち味が、いかんなく発揮されている。
この前日譚が素晴らしいのは、アニメ版と重複する他の部分のストーリー全てを、シャアの視点からもう一度、新鮮な感覚で読み直すことができるという点だ。
この構図は、映画スターウオーズ・シリーズを思い出させる。
新三部作(エピソード1〜3)が描かれることによって、旧三部作(エピソード4〜6)が、ダースベイダーであるアナキンの視点からもう一度新鮮味を持って味わえるという、巧妙にして贅沢なドラマの作り方があった。
おそらく安彦良和は意識的にそのような狙いをもって「前日譚」を挿入したのだろう。
単なる「コミカライズ」に留まらない面白さがこのマンガ版にはあるので、まだ読んでいないかつてのガンダム少年・少女は、今からでも遅くないから是非とも手に取ってみるべきだと思う。
(あれこれ空白部分を想像するのが楽しかった大人のガンダムファンにとっては、かなり強力な「正解」を叩きつけられたようなものになるので賛否があることは、一応付記しておく)
この年末年始のまとめ読みにもお勧めである。
2016年12月23日
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