砂時計の砂が落ちきる前のように、年の瀬の時間はあっという間にこぼれ落ちていく。
今年の内に書きたいと思っていた記事はなるべく年内にともがくのだが、なかなか全部はアップできそうにない(苦笑)
それでも一つ、また一つとねばる。
今年、久々に読み返した小説作品がある。
半年前の緊急入院の折、身動きの取れないベッドの中でいくつかの作品を再読した。
そんな時、電子ブック端末は便利だ。
長い長い大河小説も、かさ張らず手のひらサイズに収まってくれる。
入院期間中から再読をはじめ、退院後もしばらく読みふけっていたのが、ある宗教小説だ。
あまり有名ではないが、知る人ぞ知る伝説的なその作品、タイトルは「大地の母」という。
近代日本の新宗教の中で最大級の影響を及ぼした教団「大本」の歴史、そしてそれを率いた「大化物」出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)の前半生を描いた実録小説である。
大本の事、出口王仁三郎のことについては、当ブログでもカテゴリ節分で、断片的に触れたことがある。
小説「大地の母」の著者は、王仁三郎の実孫、出口和明(やすあき)さん。
もう二十年近く前のある夏の日、実は私は出口和明さんご本人と、けっこう長い時間、ご自宅でお話をさせていただいたことがある。
90年代後半、私はぼちぼち自分なりに宗教関係の本を読み始めていた。
そんな中、書店で手に取った「大地の母」をきっかけに、王仁三郎関連の資料を渉猟し、史跡各地を独自に巡ったりしていた。
大本や王仁三郎という素材が興味深かったことも大きいが、何よりも「大地の母」の小説としての面白さにハマりきっていた。
その思いが高じて、作者である和明さんにどうしてもお伝えしておきたくなって、長文のファンレターを書きおくった。(90年代くらいまではけっこうあったことだが、和明さんはそれぞれの著書にご自宅の住所を掲載なさっていた)
作家や作品への思いは、大きければ大きいほど気軽にファンレターなど書けなくなるものだ。
私はそれまで、いくら作品を愛していても作家に手紙など書いたことは一度もなかったのだが、その時は心のハードルを飛び越えるだけの「熱」が、私の中にあったということだろう。
すると思いがけず、和明さんご自身からの「一度亀岡に遊びに来てみないか?」と連絡をいただく幸運に恵まれた。
私はすっかり感激し、手土産にしようと王仁三郎の肖像を描いて、一路京都に出発した。
京都、亀岡の和明さん宅は、出口王仁三郎の晩年の居宅でもあり、通称を「熊野館」と呼ばれていた。
快く迎えてくださった和明さんは、二時間ほど私のかなりつっこんだ質問にも厭な顔一つせず気さくに答えてくださり、その当時の最新研究の内容なども、惜しまず紹介してくださった。
惚れ込んだ作家と直接言葉を交わせるという稀有な機会に恵まれた私には、もうそれだけで物凄い達成感があった。
ああ、こんな幸運は自分の人生でもなかなか無いだろう。
もうこれで十分だ。
好意に甘えてこれ以上を求め、作家の貴重な時間を奪ってはいけない……
そんな風に感じた私は、以後の数年間、直接熊野館を訪れることは遠慮した。
当時の私はまだ若かったけれども、良い思い出を摩りきれさせずに心の中にしまいこむ程度の賢明さはもっていたのだ。
出口王仁三郎に対する興味はその後も持続していて、あれこれ情報収集に努めてはいた。
しかし、亀岡の熊野館に行くつもりはもうなかった。
一つには、いくら王仁三郎に惹かれ、和明さんを敬愛するとは言え、大本や出口王仁三郎の教えを「信仰」する意思がまったく無かったことがある。
私は浄土真宗の僧侶の家に生まれ、結局自分では僧にならなかったけれども、子供の頃からの生活習慣としての真宗に、やはり馴染んでいた。
大本の祝詞は好きでよく唱えるけれども、どこか付け焼き刃な感は否めない。
子供の頃から繰り返してきた念仏和讃ほどのリアリティをもっては唱えられない。
私には家の宗派を捨ててまで、王仁三郎の教えを「信仰」するほどの動機は無かったのだ。
そして、もう一つ。
私は正直、ちょっとビビっていたのだ。
「大地の母」を始め、和明さんの一連の著作には、これでもかこれでもかというほど、大本や王仁三郎の強力な磁場、巨大な物語に、人生まるごと巻き込まれる人々の様が描かれていた。
そしてその物語は、和明さんの存命時にはリアルタイムで和明さんを中心に轟々と渦を巻いていたのだ。
私は自分の人生をそこに投ずるほどの動機がなかった。
宗教学者の島田裕巳さんの著作に「日本の10大新宗教」という本がある。
よく売れた本なので手に取った人も多いと思うが、その中に大本を扱った一章がある。
それによると島田さんは「大地の母」を読み、そのあまりの面白さに驚愕しながら、「大本のことだけは研究すまい」と思ったのだそうだ。
大本や王仁三郎を深く理解し、研究しようとするなら、外部からでは不可能。
そう結論せざるを得なかったという島田さんの判断に、私も全く同意する。
大本は怖いところ、生半可な覚悟で接近してはいけないという思いは、今も変わっていない。
出口王仁三郎という人物はとんでもなく魅力的であるし、その教えも素晴らしい。
縁ある人、魂がそれを求める人は、それを学ぶ価値がある。
しかし、その磁場はあまりに強力で、ときに人の生き方まで大きく左右する。
自分にその気がなくても奇妙な縁に導かれ、気がついてみると知らぬ間にその真っ只中にいたりするところが、また怖いのだ(苦笑)
私はもっぱら、一人で関連書籍を調べる程度に留めることにしていた。
それから数年後の2002年、私はふと思い立って再び亀岡に足を伸ばした。
もしかしたら何か心に知らせてくるものがあったのかもしれない。
私はその時、和明さんが大病と向き合っておられることを知った。
近々、和明さんが講師を務める最後になるかもしれない研修会が開かれる聞き、とるものもとりあえず参加した。
私は微力ながら和明さんを元気づけ、喜ぶ顔が見たい一心で、王仁三郎の「霊界物語」の冒頭部分を絵に描き、紙芝居仕立ての作品にしようと制作を開始した。
しかしその作品が一応完成する直前に、和明さんは帰らぬ人となってしまった。
私はその後も引き続き、大本や出口王仁三郎について調べ、描くことを断続的に続けることになった。
その成果の一端は、別ブログで公開している。
もしもあのとき間にあっていたとしたら、私はそれに満足して、「出口王仁三郎の世界の視覚化」の筆を置いていたかもしれない。
間にあわなかったことが、その後も私に筆を取らせる原動力になっていると感じる。
現地調査等で大本の地元である亀岡や綾部に足を運ぶうち、年の近い当時の「青年」の皆さんとはいくらか付き合いができた。
和明さんの思い出を共有する仲間として友情を感じていたが、それでも私は信仰は持たない「部外者」の分はわきまえて、あまり深入りしないように遊ばせてもらう月日を過ごした。
そして2010年、ちょっと衝撃的な一報があった。
熊野館の焼失である。
出口王仁三郎晩年の住まいにして、その孫で作家の出口和明さん宅でもあり、2002年に和明さんが昇天なさったあとは、ご家族が霊界物語研鑽の活動を続けてこられ、貴重な史料が蓄積される拠点であった熊野館。
原因は漏電による失火で、多くの物品が失われはしたけれども、人的被害はなかったとのこと。
焼失後、一週間ほど経った熊野館を、私は一目だけ見てきた。
少し不謹慎な物言いになるかもしれないが、火事の現場を見た印象は、正直に言うと凄惨さよりもなにか森の木立の中の風景を見るような、爽やかな印象を受けた。
その時は不思議に思ったが、よく考えてみれば、王仁三郎の人生自体が、「火」によって度々焼かれ、そこから不死鳥のように甦ることの繰り返しだったのだ。
それは、鉄が火に焼かれ、打たれることによって、鋭利な刃物として完成する様にも似ている。
現場を見て、私は自分のやるべきことを、そのまま続けるだけだと強く感じた。
和明さんと長くお話したのと同じ、暑い夏の日のことだった。
私は今でも、亀岡や綾部で知り合った皆さんとたまには連絡を取りながら、基本的には一人で研究や「絵解き」の制作を続けている。
そして今年、何年かぶりで「大地の母」の世界を堪能した。
やはり、とんでもなく面白い。
私がこれまで楽しんだエンターテインメント作品の中でオールタイムベストを作るなら、必ず上位に食い込む作品である。
実は出口和明さんの著作、現在かなりネット公開が進んでいる。
興味のある人は、ご子息の出口恒さんのサイトを参照すると良いだろう。
私が愛してやまない「大地の母」も、pdfファイルで無料配布されている。
スマホ等のサイズの小さな液晶画面むけの編集で、ルビが入っていない点が難といえば難だが、日常的に本を読む習慣のある人は問題なく読めるだろう。
個人で作成されているようなので一部編集の乱れも見受けられるが、ともかく読みはじめてみるには使い勝手が良いと思う。
ただ、全十二巻の大長編なので、本来ならばあまり電子書籍むけの作品ではない。
まずは無料のpdfでお試しの後、気に入ったら紙の本でじっくり読むのが良いと思う。
とにかく、小説として無類に面白い名作中の名作。
神仏与太話ブログ「縁日草子」が、最大級にお勧めする大河小説である。
2016年12月27日
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