スーパーロボットの生みの親である永井豪とダイナミックプロのデザインは、シンプルで力強く、ちょっと悪魔的な魅力もあり、子供の心を鷲掴みにするものだったけれども、立体物になったときの整合性は、必ずしも考慮されていなかった。
そもそも企画・デザイン段階では「玩具を売って儲けを出す」というビジネスモデルを前提にしていなかったのだから、これは仕方がない面もある。
マンガやアニメのマジンガーZをデザインそのままに立体化しても、「ポーズをつける」という遊び方はほとんど見込めなかった。
出来てもせいぜい腕の前後スイングや、首を左右にふるくらいのもので、実際出来上がった超合金やソフビの玩具も、まさにその程度の関節可動しかなかったのだ。
ましてやゲッターロボの複雑な変形合体などは全く不可能だった。
ビジネスモデルが確立し、玩具の販売がTVアニメ企画の前提になると、実際に立体化された時の整合性や、変形合体が可能なデザインが求められるようになった。
そうしたニーズをデザインに反映させることに成功したのが、後の「ガンダム」のメカニックデザインを担当することになる大河原邦男や、「スタジオぬえ」等のメカニックデザイン専門のスタッフだった。
日本の物作りの伝統は「たかがロボットの玩具」にも十分に発揮され、アニメで見るのと近いレベルの変形合体が、玩具でも再現されるようになった。
ただ、ダイカスト製の「超合金」は、複雑な変形合体を再現したものほど大型化し、高価になりやすく、子供の小遣いでは容易に買えない「高嶺の花」になっていった。
高額化した超合金の廉価版という意味合いで、変形や色分け、耐久性を多少犠牲にしたプラスティック製玩具も発売されるようになり、組み立て式のプラモデルもその中の一つだった。
一話完結の「ロボットプロレス」アニメは、低年齢の子供にも分かりやすい魅力があったが、ある程度の年齢になると視聴者や玩具の消費者としては「卒業」していくのが通例だった。
そうした卒業組を、視聴者として再びTVアニメに呼び戻せるだけのドラマ性、デザイン性を盛り込むことに成功したのがアニメ「宇宙戦艦ヤマト」だった。
ヤマトには「巨大ロボ」こそ登場しなかったが、作中の宇宙戦艦、戦闘機のデザインは、実在の艦船や戦闘機などのメカニックを元にSF的に洗練したもので、目の肥えた年齢層にも十分届いた。
ヤマトのメカニックデザインの主導権が誰にあったかということには諸説あるが、マンガ家の松本零士は生粋のミリタリーマニア、プラモデルマニアであり、スタジオぬえはSF考証や最新技術の反映に長けていた。
共同作業による効果があったということで良いのではないかと思う。
プラモデル化した時の見栄えも良く、後にガンプラを制作することになるバンダイは、ヤマトシリーズの宇宙戦艦や戦闘機等を多数手がけることで、リアルなSFモデルを立体化させる経験値を蓄積させ、市場を開拓していった。
ロボットアニメはロボットアニメで、低年齢層をターゲットに新作が作られ続け、「玩具の30分CM」という制約の枠内ではあるけれども、可能な限りドラマ性を盛り込むことが模索され続けた。
当時のロボットアニメがいかに高度なドラマ性を持ち始めていたかということは、以前に一度記事にした音がある。
フェイクがどうした!
そんな流れの中で異能を発揮していったのが、「勇者ライディーン」「無敵超人ザンボット3」等で活躍した監督・富野喜幸であり、キャラクターデザイン・安彦良和だった。
富野、安彦、そしてメカニックデザインの大河原邦男は、後に「ガンダム」で合流し、ロボットアニメにマジンガーZ以来の二度目の劇的な進化をもたらし、空前のガンプラブームを勃発させることになったのだ。
ただ、ガンダムで起こった劇的進化は、作品を創り上げたスタッフの異能だけではなく、玩具メーカーの技術発展、視聴する側・玩具を消費する側の成熟など、全ての条件がタイミングよく結集した結果であったとも言える。
何かの作品が爆発的にヒットするということには、その作品の質と共に、広く受容される機運のようなものが不可欠なのだ。
70年代のロボットアニメはまさに「スーパーロボット」の時代だった。
そこから80年代の「リアルロボット」へと再度進化する過程は、やはりその中心近くにいたメカニックデザイナー・大河原邦男の軌跡を追うことで理解しやすくなる。
●「メカニックデザイナーの仕事論 ヤッターマン、ガンダムを描いた職人」大河原邦男(光文社新書)
昨年2016年から開催されている大規模な「大河原邦男展」の図録も素晴らしい。
大河原邦男展
現在、九州で開催中の模様。
生頼範義展と言い、今九州がアツいのか……
2017年01月07日
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