私は基本的に、所属していた劇団の初期脱退メンバーだ。
旗揚げ後の二年間ほど、まだあまり売れていない時期に舞台美術を担当していたというだけで、その後の劇団の活躍や集客には何も貢献していない。
脱退後はほとんど連絡もとってこなかった。
そんな立場をわきまえ、その後もずっと芝居を続けてきた関係者の皆さんに対して失礼に当たらぬよう、ものの書き方には注意しなければならない。
劇団名や個人名を出していないのはそのためで、多少読みづらいと思うがご容赦いただきたい。
私の舞台づくりの手順は、だいたい以下のような流れだった。
まずは作演出のイメージを聞き、会場のサイズや設備の情報を集める。
作演出の要望になるべく沿う形で、無理なく実際の形にするには、どのようなデザイン、どのような素材が最適かから考える。
私は絵描きであるけれども、舞台美術の時はなるべく「絵」は使わない。
何故か昔から、「書き割り」が置いてある舞台は、嘘っぽい感じがしてあまり好きではなかったのだ。
そもそも絵描きだし、映画館の看板描きのバイトをやっていたので、学生演劇をやっていたときに「書き割り作れ」と言われればそれなりのものが作れたが、どうしても感覚的に好きにはなれなかった。
大道具にペンキであれこれ色を塗り分けるのもあまり好きではなく、せいぜいつや消しの白や黒、アイボリーなどを使うくらいであることが多かった。
なるべく素材を活かして、あまり具象的なモノは作らず、折紙やペーパークラフト程度には抽象化し、シーンによって様々に「見立て」ができる舞台づくりが好みだった。
作演出の彼は、かなり細かくイメージや要望を出す方だったので、その条件や会場施設を頭に置きながらホームセンターや東急ハンズを巡る。
予算や人員、制作期間、仕込みや撤収の手間等も考え合わせると、自ずと使用素材やデザインが絞られてくる。
浮かんだアイデアをもとに何案かスケッチを描き、作演出や舞台監督とも相談しながら煮詰めていく。
OKが出たら制作開始。
こうして振り返ってみると、絵描きというよりは、素材の知識のある工作職人として参加していたようだ。
公演資金は、所属している役者やスタッフがそれぞれにチケットノルマを負うことで賄われる。
作演出や役者はチケット枚数にすると40〜50枚分、スタッフは20数枚分くらいだったと記憶している。
年に2〜3回の公演であると考えれば「過酷」というほどの額ではなく、90年代当時はどこの劇団も似たような感じだったのではないかと思う。
ノルマで抱えたチケットがさばければ負担は無くなるわけだが、まだ名の知られていない旗揚げ時は、みんなけっこう苦労していた。
劇団員というと派手で社交的なイメージがあるかもしれない。
もちろんそういう人も多いのだが、私の知る限りでは役者にもスタッフにも内向的で売り込みが苦手な人もけっこういた。
作演出や役者なら学生演劇時代からある程度ファンがついているし、「自分が書いた芝居」とか「自分が出る芝居」ということであれば、比較的チケットは売りやすい。
私の場合はスタッフで、自分が出ているわけでもないし、さほど人付き合いの多い方ではないので毎回苦労していた。
演劇はたくさんの人に観てもらってなんぼなので、「売れないチケットは被ればいい」で済ますのは、あまり良くないのだ。
舞台美術が私の主導で制作されるようになったのは、参加二回目の94年9月公演から。
この9月公演の前に、抱えたノルマを消化すべく名簿をくっていた時、私はある古い友人のことを思い出した。
(続く)