2017年01月31日

映画「この世界の片隅に」

 しばらく前になるが、映画「この世界の片隅に」を観た。
 仕事のシフト変更でぽっかり時間が空いた時には、映画鑑賞などがほど良い。
 この作品、話題作ということもあるし、あまり交友関係の広くない私の、数少ない知人の一人が参加しているとあっては、やっぱり映画館で観ておきたかった。
 平日昼間だったがかなり人が詰まっていて、満席に近かった。
 公開からかなり経っているのにこの入りは素晴らしい。
 これから観に行こうという人は、とくに休日は念のため予約するか、早めに映画館に着くようにした方がいいかもしれない。

 噂にたがわぬ良い作品だった。
 戦争や原爆はテーマとして厳然とあるのだけれども、描写の中心は名もない庶民のごく普通の生活風景だ。
 ちょっとぼんやりした、絵を描くのが好きな女性「すずさん」の眼と手を通して、戦前から戦中、戦後の広島近辺の風景が、ていねいにていねいに描かれる。
 精緻を極めた絵作りがなされているはずなのに、原作マンガ家こうの史代の画風もあって、観客の眼に入る映像はあくまでさりげない。
 絵作りに全力を傾注しているはずの作り手の熱意が、前面には出過ぎていないのがまた素晴らしい。
 そうした細やかな生活描写や、情のやりとりが描かれてこそ、徐々にスクリーンに侵攻してくる戦争の暴威が、強烈なコントラストを感じさせるのだ。

 映画を観ながら、なんとなく石牟礼道子の著作のことを思い出していた。
 水俣の語り部であるかの作家も、公害の惨禍だけでなく、それ以前の美しく懐かしい水俣の海山、民俗の在り様を作品として結晶させ続けてきた。
 作品に少し「異界」とか「幻視」の要素が含まれていることも、共通しているように感じる。
 理不尽な暴虐に対する時、失われたものの美しさを描き残すことこそが、もっとも強い力を発揮することもあるのだ。
 そう言えば3.11後の反原発デモでも、幾多の力のこもった演説にもまして多くの人の心を打ったのは、唱歌「ふるさと」だった。

 絵描きのハシクレとして観るならば、主人公のすずさんが空襲時に呆然と空を眺めながら「今絵の具があったら」と夢想するシーンが心に突き刺ささる。
 そう、絵描きはそのように感じるのだ。
 現実と並行してふと夢想が混ざり込み、そんな物語を描き留めたくなる感覚は本当によくわかる。
 それは絵描きの「業」だ。
 すずさんは状況的に描けなかったけれども、絵描きの業を背負った者は、できることならそんな時は、まわりにどう思われようと、やはり描いた方が良いのだ。
 

 あまり人には言わないけれども、私は毎日のように「絵を描く手がなくなったら」とか「目が見えなくなったら」と、ひとしきり想像する時間を持っている。
 実際そうなってみないと分からないが、もしそうなっても描けるようにと、そのような想定をする時間を持つように心がけている。
 明日何が起こるかわからないのが人生だ。
 幼少時、そして青年期の経験から、私はそのことを身に染みて知っている。

 描き残す、そして書き残すということについて、深く感ずるところの多い、本当に良い映画だったと思う。
posted by 九郎 at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | カミノオトズレ | 更新情報をチェックする
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