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2017年03月06日

リアルな表現の危うさ

 日本のTVアニメにおいては、1974年放映の「宇宙戦艦ヤマト」あたりからよりリアルなSF描写、戦争描写が導入され始めた。
 それまでの子供(主に男の子向け)番組の主人公は、単独または少数精鋭のチームで「善玉」を担当し、「悪玉」にあたる敵役は、見た目から明らかに人間離れしたモンスターであることが基本だった。
 ストーリーはわかりやすい「勧善懲悪」であり、30分枠の一話完結で、過不足なく見せ場を繋げる定型を持っていた。
 こうした低年齢向けの番組スタイルは、時代を超えて一定の需要が見込めるので、アップデートを繰り返しながら連綿と今に続いている。
 マジンガーZを始祖とするスーパーロボットものも、単独のアニメ番組としては下火になっているものの、男の子向け番組の中の一アイテムとして、たとえば特撮のスーパー戦隊シリーズの中では健在なのだ。

 低年齢向けの定型は温存されながら、観る側と作る側の成熟により、TVアニメの表現は「次なる段階」への進化も模索された。
 小学校高学年から中学生にかけて、本来なら子供番組から「卒業」する年代の鑑賞にも堪える要素として導入されたのが「よりリアルな表現」であり、その嚆矢が「宇宙戦艦ヤマト」だったのだ。
 ストーリー構成は一話完結方式から一歩踏み出し、放映一回分は「目的を持った長い宇宙航海」のエピソードの中の一つであることが、毎回強調された。
 何よりも大きな変化は、敵役が(異星人ではあるが)あくまで「人間」であったことだろう。
 ガミラス星人は肌の色が薄いブルーであることを除けば、外見も体格も能力も地球人と大差はなく、宇宙戦艦や宇宙戦闘機、各種火器で戦闘を行い、地球人と同じような感情を持ち、同じように死傷する。
 科学力の優位で地球側を圧倒しているけれども、ほとんど人間にと同じに見える異星文明との戦争であるという点が、低年齢向けの「わかりやすいモンスターをやっつける」定型とは一線を画した「リアル」を醸し出したのだ。
 ここで重大な問題が生ずる。
 TVアニメで「人間同士の戦争」を「リアルに」「カッコよく」描くことは、一歩間違うと「戦争賛美」「戦意高揚」のプロパガンダになりかねないのだ。
 この点については、「ヤマト」制作に大きな役割を果たした漫画家・松本零士が、そうしたリスクを避けるために細心の注意を払った経緯を、後年繰り返し語っている。
 地球側の艦隊の描写では極力「軍国主義」に見える意匠を避け、あくまで侵略に対する自衛であるという表現を徹底させた。
 敵方であるガミラス星にはガミラス星なりの「大儀」があったことも描かれ、敵も味方も死傷する戦争の「痛み」の部分も強調された。
 生粋のミリタリーマニアである松本零士が、その持てる素養を全て駆使したからこそ、「面白く、カッコよく、それでも戦争賛美にさせない」という離れ業を成立できたのだろう。

 こうした配慮は「ヤマト」以後の作り手側も常に意識していたようで、後発の「機動戦士ガンダム」では、より注意深く「戦争賛美」化しないよう留意されている。
 ガンダムの世界では戦争は「異星人の侵略からの自衛」ですらなく、一方から見れば「搾取された宇宙コロニーの独立戦争」であり、もう一方から見れば「独裁体制の打倒」であった。
 主人公を含む少年少女達は、ともに大義を掲げる両勢力間の戦争に巻き込まれた難民で、見かけ上の敵(ジオン)味方(連邦)はあるけれども、それは必ずしも「善悪」を意味せず、本質的には「極限状態からのサバイバル物語」だった。
 生き残るために仕方なく目の前の戦闘行為に参戦するうちに、主人公アムロは優秀なパイロットとしての才能を開花させていくのだが、本来戦争向きではない内向的な少年が否応なく殺傷を重ねさせられる痛ましさも繰り返し描かれていた。
 こうした分析はもちろん大人になって初めて可能になるのだが、子供であっても完全に理解できないなりに「あれはどういうことだったのか?」という問いが心の中に残る。
 その後の様々な経験や学習を通して、徐々に疑問が解け、納得できてくるのである。

 低年齢向きの、明らかに絵空事とわかる勧善懲悪の作品では必要なかった微妙なバランス感覚が、より高い年齢層を対象にしたリアルな表現の作品では必須になってくる。
 ガンダムを嚆矢とする歴代のリアルロボットアニメでも、この点は常に注意深く継承されていったようで、私の知る限りの80年代作品は、新たな趣向を求めて手を変え品を変えながら、いずれも「危うい均衡」を保持していいたと記憶している。
 男の子向け番組を作って関連商品を売るというビジネスモデルは、どのように言いつくろっても男の子が本能的に持っている「戦争ごっこ好き」の性質を煽って飯のタネにするという側面を持つ。
 ウケてなんぼ、ウケなきゃゼロの厳しい世界だが、そんな制約の中でも作り手のギリギリの良心というものが光る瞬間があるのだ。
posted by 九郎 at 21:55| Comment(0) | TrackBack(0) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする
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