「こんな本ばかり読んでたら、頭イカれてしまうんじゃないか?」
ぶっちゃけて言えば、そんな懸念だった。
そもそも絵描きなので、軽微ながら「幻視」の傾向はあった。
日常生活に支障が出るほど「見えっぱなし」ということはなかったが、疲労や睡眠不足でぼんやりしている時、変な感じになることはたまにあった。
睡眠時にいわゆる金縛りや幽体離脱みたいな体験はけっこうあったし、悪夢や怪夢の類はよく見た。
そして、我ながら呆れるほど融通の利かない、思い込みの強い性格である。
下手に宗教書を読み込んだりすると、本当におかしくなってしまうんじゃないかと思ったのだ。
そんな懸念を抱えていたので、まずは河合隼雄の本をよく読んだ。
どれを読んでも面白いのだが、入り口として読み易いのは以下の本あたりではないかと思う。
●「無意識の構造」(中公新書)
ユング派の心の構造の考え方を総合的に分かりやすく解説した入門書。
●「子供の宇宙」(岩波新書)
カウンセリングの場面で起こる様々な出来事や、児童文学の中に描かれる子供の内的世界について、実例を挙げながら紹介。
●「明恵 夢を生きる」(講談社+α文庫)
中世の僧・明恵の「夢記」を題材に、夢に関する様々な事柄を幅広く解説。
どの本もかなり知的刺激を受けるにも関わらず、ふわりと包み込むような読後感が素晴らしかった。
色々あっても、「ああ、多少イカれてても大丈夫かな」と思えるところが救われるのである。
精神については他の著者の本もそれなりに読んだが、何か問題を抱えた時に、誰の本を読んでもいいというわけではないことはよくわかった。
読んだことでかえって追い詰められ、失調する場合もあり得るなと感じた。
この記事で紹介している著者、著作は、あくまで「私の経験に照らして大丈夫」と感じたものである。
同じ頃、私が「心の在り方」に関連してよく読んでいた、あるサブカル系のライターがいた。
名を村崎百郎という。
自ら「鬼畜」「電波系」を名乗り、日々受信する妄想やゴミ漁りを、狂的、露悪的な文体でサブカル系の雑誌に記事を連発していた。
巨躯に片目だけを露出した頭巾姿、シベリア出身で中卒の工員、暴力事件を度々起こしたキチガイというプロフィールだった。
もちろん本名は別にあり、そうしたプロフィールも「事実そのもの」ではなかったのだが、文体の異様な迫力が「真実味」を持たせていた。
実際、「ひっきりなしに何かが聞こえる」タイプの人であったことは間違いないだろう。
村崎百郎のことはずっと気になっていて、90年代以降も何か本が出れば手に取っていたが、2010年、ある事件でお亡くなりになってしまった。
その当時、当ブログでもごく簡単に書いた通り、この人に対して「冥福を祈る」とか紋切り型の言葉をおくることは、少々ためらわれたのである。
「本、何度も繰り返して読みました。『電波系』と『赤泥』は、いまでも読み返してます」
もしお会いすることがあったなら、たぶんこの一言だけ伝えて早々に退散しただろう。
事件の報道を知ってから数日、ネットで偶然のぞいたページに、少し感じるところがあった。
yahoo知恵袋に寄せられた質問の一つである。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1027682090
息子が「ドグラ・マグラ」という本を持ってます
表紙のイラストが怪しげです
裏表紙に[これを読む者は一度は精神に異常をきたすと伝えられる、一大奇書。]とあり、あらすじ的なことは書いてありません
どんな内容なのでしょう?
息子は大丈夫でしょうか?
ベストアンサーに思わず笑ってしまった。
その回答だけで十分なはずなのだが、親切な人たちが一々補足しなければならない風潮に、仕方のないこととはいえ、野暮なものを感じた。
こんなつまらん世の中、どんどんつまらなくなるニッポンで、彼は「村崎百郎」をやってくれていたのだな……
そんな風に思ったのだ。
そう言えばこの「ドグラ・マグラ」も、当時何回か読んだ覚えがある。
私が90年代に繰り返し読み、今でもたまに読み返す村崎百郎の著作は以下のもの。
単著ではないが、かの人の「鬼畜」の部分と、何と表現すべきか言葉が難しいのであえてこの言葉を使ってしまうが、「愛すべき」部分が、それぞれいかんなく発揮された二冊だと思う。
●「電波系」根本敬 村崎百郎(太田出版)
●「電波兄弟の赤ちゃん泥棒」村崎百郎 木村重樹(河出書房新社)
村崎百郎の死後、関係者の証言と単行本未収録の文章を集めた一冊が刊行された。
●「村崎百郎の本」(アスペクト編)
私が大好きだった雑誌「imago」掲載の一文も収録されている。
タイトルは「キチガイの将来」。
いつも通りの露悪的な文体の底に、キチガイとキチガイ予備軍に対する(これも他に適当な言葉が見つからないのでやむなく書いてしまうが)「やさしさ」が感じられ、しんどくても生きていける気がする名文なのである。
鬼畜を装っていても実はイイ人みたいな紹介のされ方は、村崎百郎本人が最も嫌うだろうということは分かり切っているので、表現が難しい。
村崎百郎の死の直後、私は自分の記事のタイトルに「偽悪と露悪の向こうがわ」と書いた。
ちゃんと表現できている気がしなくてその後もあれこれ考えているのだが、彼を表すのに適当な言葉はまだ見つかっていないのである。
私が90年代に読み耽った「こころ」に関する両極端とも言えるお二方は、今はもうどちらもお亡くなりになってしまった。
一通り読み終わった後、当時の私は、軽い失望と共に、一安心した。
「おれには本当に狂ってしまえるほどの才はないな」
そんな風に、了解できたのだ。
(続く)