昭和十年の第二次弾圧では、主だった幹部信徒は軒並み拘留され、新聞報道は「邪教大本」の壊滅を無批判に書きたて、世論をヒステリックに誘導した。
昭和十一年には裁判結果を待たないまま、法的根拠の無いままに、当局による教団施設の破壊が開始される。
建造物は徹底的に破壊、廃棄、焼却。
石材は再利用されないよう海洋投棄。
土地は二束三文で強制売却。
とりわけ、堅牢な亀岡天恩郷の神殿、月宮殿は、連日ダイナマイトで徹底的に爆破。
全国の別院、歌碑も根こそぎ破壊。
おまけに破壊の費用は全額大本に請求される。
拘留された幹部には過酷な拷問が科され、死者、廃疾者が相次いだ。
一般信者にも徹底的な弾圧が加えられ、王仁三郎の著作、短冊、書画等は没収の上全て焼却。
この地上から大本が存在した事実ごと抹殺するかのような、異様な執念を感じさせる破壊行為である。
この狂気の弾圧は一体何に起因していたのか?
実は現在でも「定説」と呼べるものは無い。
一応、「記紀神話と相いれない独自の神話体系を持ち、政治運動の領域まで進出していたから」という説明はされている。
しかし、大本には武装蜂起や国家転覆を実行するための、いかなる行為もなかったことは、はっきりしている。
戦前の「暗黒」と呼ばれた裁判ですら、犯罪に該当するような行為を示すことは出来なかったのだ。
敗戦と共に、大本事件に関する裁判は、ほとんど全てが大本側の勝訴に終わった。
弁護団は当然、莫大な国家賠償を求めるものと準備を進めていたが、王仁三郎の指示で中止されたという。
曰く、
「そんなけちなことをするな。敗戦後の政府に賠償を請求しても、それはみんな、苦しんでいる国民の税金からとることになる。そんなことができるもんやない。今度の事件を、わしは神さまの摂理だと思うとる」
私が出口王仁三郎という人物に強く惹かれた理由はいくつもあるけれども、この「気高い」という他ない言葉は、とりわけ心に残っている。
大本事件の真相とともに、これほどの人物はいかなる道を歩んできたのか、少しでも知りたくて、ずっと調べ続けているのである。
95年の阪神淡路大震災やカルト教団によるテロ事件をきっかけに、私は意識的に宗教関連の本を読み始めた。
仏教から始まり、日本の神道や神仏習合、中国の道教、インド神話、そして世界の民族芸術を含むアニミズムに関心をもって、本や音源などを渉猟し続けた。
できることなら(本の中だけでのことだが)宗教で世界一周するつもりだったけれども、結局旧約聖書から発した宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)までは届かなかった。
絵入りの「聖書物語」の類は楽しんで読んだが、聖書そのものを開くには至らなかったのだ。
ただ、日本の隠れキリシタンの創世神話「天地始之事」にはかなり興味をひかれ、今でも自分で絵解きをやってみたい意欲はある。
●「かくれキリシタンの聖画」谷川 健一 中城 忠(小学館)
●生月壱部 かくれキリシタンのゴショウ(おらしょ)
当ブログでも、「天地始之事」については、ほんのさわりだけ記事にしたことがある。
びるぜんさんた丸や
諸星大二郎「生命の木」
読書の幅を広げることに一段落した2000年以降は、それまでに関心を持った主要なテーマについて、掘り下げていくことになった。
・家の宗派である浄土真宗。
・遍路と放浪芸
・マンダラを描くための密教(チベット密教を含む)
・出口王仁三郎と「霊界物語」
これらのテーマは、現在進行形で探求中である。
(「本をさがして」の章、了)