先月末、ある事件から二十年経ったとの報道があった。
二十年前と言えば90年代後半、震災やカルト教団によるテロ事件で騒然とした世相が、いまだ冷めやらぬ頃のことだ。
あの事件と言うのは、年若い少年による、連続児童殺傷事件のことである。
私は事件現場から小一時間ほどの地域に住んでいたので、「地元民」とまでは言えないまでも、かなり当事者意識はあった。
当時の感じていたことは、以前一度記事にしたことがある。
それ以前の震災やカルト教団のテロ事件も衝撃だったけれども、今回報道のあった事件もまた別の意味で「心に刺さる」ものがあった。
目を背けたい思いと同時に強い関心も抱いていて、関連書籍を一通り確保しながら、中々開けずにいた。
実際に本を開くことができたのは事件から何年も経った後のことだった。
その中から二冊だけ手元に残していた信頼できる語り手の本を、久々に再読した。
綿密な取材から浮かび上がるのは、必ずしも周囲の環境や少年自身の「異常性」ではない。
事件周辺に散らばる様々な要素は、一つ一つをバラバラに見てみれば、どれも飛び抜けて「異常」というほどのものではないのだ。
ニュータウンという環境は日本中どこにでもある。
この程度の学校や捜査当局の対応の不味さは、日常茶飯事である。
この程度のエキセントリックは、子育て中の母親の多くが抱えている。
この程度の家庭での存在感の薄さは、仕事熱心な父親の多くが抱えている。
そして、この程度の「心の闇」は、思春期の少年少女の多くが抱えている。
おそらく日本中で毎日大量に発生しているであろう小さな「ノイズ」の断片が、不可解なタイミングでこの少年に集中し、凄惨な事件に結晶したように見える。
だからと言って少年の罪が免罪されるわけではない。
とっくの昔に成人した元・少年には、生涯かけて被害者遺族の皆さんに償う義務がある。
ただ、やはり認識しておくべきなのは、事件の因はかの少年の異常性「だけ」には限定できないということだ。
今回二冊を再読し、過去の自分をふり返ってみる。
学校に馴染めず、周囲とあまり話が合わず、本を読み、絵を描き、文章を書き、近所の裏山や、訪れる者もない奥池で孤独に浸る少年の姿は、やはり痛く心に突き刺さる。
程度の違いこそあれ、少年時代の私も同じようなことをしていた。
書き出してみると、我がことのようだ。
はっきりした違いもある。
私は小学校低学年の頃に、幼児特有の「虫を殺す遊び」に嫌気がさすことができたが、少年はその時期を過ぎても小動物の殺傷を止められなかったことだ。
その分岐点に、何らかの鍵はあるのかもしれない。
2017年06月02日
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