お店の雰囲気と飲んでいるメンバーが上手くハマると、なんとも言えない趣向が立ち上がってくる。
Nさんの好みで大阪近辺の沖縄酒場に行った時には、お店の人とのやり取りが本当に可笑しかった。
よく、関西人同士の会話を他の地域の人が聴くと「漫才やってるみたい」と表現される。
関西人のお笑い志向はちょっと極端だが、会話の雰囲気の「地方色」というものは、多分どんな地域にもある。
沖縄出身で、沖縄から遠く離れたお店の人。
沖縄出身ではないけれども、沖縄に物凄く詳しいNさん。
その両者に泡盛という触媒が作用して、亜熱帯の夢と現実が半分溶けたような、何とも言えないオハナシの世界が立ち上がってくる。
面白がっている私という聴き手がいることも、たぶん少々プラスに作用して、夢と現の沖縄与太話は加速していく。
私には残念ながら、その独特の世界を再現できるほどの筆力はないが、体感した雰囲気は今でも強く印象に残っている。
魅力的な民俗の世界に、異国から来た友人としてふわりと入り込んでいくNさんの「芸」のようなものを、私は興味津々で見ていた。
酒の話が続いているが、別に飲んでばかりいたわけではなく、仕事は仕事でちゃんとやっていた。
Nさんの事務所は沖縄関連の仕事が多かった。
今のように沖縄の風物がヤマトでも知られるようになってきたのは、確か2000年代に入ってからのことだ。
私がバイトを始めた90年代前半は、今ほどには知られていなかった。
THE BOOMの「島唄」はヒットしていたが、使用されている三線はまだうちなー風に「サンシン」とは呼ばれず、「蛇皮線」と紹介されることが多かった。
ゴーヤーはまだ全く知られておらず、ましてやチャンプルーという言葉など、一般にはまだ意味不明の文字列に過ぎなかった。
「泡盛は飲みやすさのわりに強いから、すきっ腹で飲まん方がいい。必ず何かつまみながら飲むように」
沖縄酒場でNさんは、ゴーヤーチャンプルーを注文しながら、そう教えてくれた。
私は初めて食べてすぐに好きになったが、主な材料のゴーヤーも島豆腐もポークスパムも、ヤマトでは中々手に入らなかった。
沖縄の味を食いたいと思えばお店に行くしかない時代だった。
だから時期的にはけっこう早く、私は沖縄のあれこれを知る機会に恵まれたのだ。
沖縄の景観や街づくり、文化財調査の報告書の版下作業をしていると、自動的に内容を熟読することになる。
プレゼン用の図面の仕上げ作業をすると、概念だけでなくかなり立体的に頭に入ってくる。
加えて、Nさんの普段の雑談や、酒席での与太話である。
私の沖縄基礎知識は、バイトに入るごとに集積されていった。
素養が出来上がったタイミングで命じられるのが、お待ちかねの「現地調査」である。
那覇周辺の現地財調査で、私は何度か沖縄に行かせてもらった。
市内にある拝所や古木、古いお墓、石垣、石畳、シーサー、石敢当などを求めて、連日歩き倒す仕事である。
リゾートのイメージとは程遠い場所ばかりなのだが、私にとってはむしろ望むところだった。
文字で読んだり話に聞いていた「沖縄」に触れ、面白くて仕方がなかった。
昼間は地図とにらめっこしながら写真を撮ったり図面にメモしたりしてまわり、夜は国際通り周辺をぶらついた。
適当に飲んで領収書もらってこいということだったので、よくわからないまま勘で店に入る。
ある時、飛び込みで入った一軒では、市内にある神社の娘さんという人がいて、彼女は大阪にも頻繁に行っているそうで、色々面白いお話を聞くことができた。
土産物屋でココナッツの殻を使ったオモチャウクレレを売っていたので、適当にチューニングして試しに弾いてみると、店のお兄ちゃんが、
「えっ! それほんとに弾けるの!」
と、逆にびっくりされたことがあった。
完全に飾りとして売っていたそうだ。
そこから話がはずんで、ちょっとおまけしてもらったりした。
現地調査がちょうど県知事選の選挙運動期間と重なっていたこともあった。
その時は支持が割れてけっこう盛り上がっており、そんな政治的な空気を見聞できたのも良い経験だった。
Nさんは多忙だったので、私は現地調査では単独行動が多かった。
今から考えるとNさんは、仕事のついでに私をしばらく放し飼いにしておき、何か感じて与太話をくわえて帰ってくるのを待っていたのかもしれない。
その期待に沿えたかどうかは分からないが、私なりに沖縄で感得したものはとても多かった。
その一部は、このブログでもカテゴリ沖縄として記事にしてきた。
(続く)