90年代、断続的にではあるけれども、Nさんのものの考え方や佇まいを、けっこうな期間「面受」できたことは、得難い経験だったと思う。
ある時、酒の席でNさんとの関係を聞かれた私は、冗談半分本気半分で「弟子です」と答えたことがある。
Nさんは「なんの弟子なんや?」と笑っていた。
酔った勢いで口走ってしまっただけなので気の利いた答えが出てこず、「なんの弟子なんでしょうね?」と言葉を濁した。
バイトを始めた頃、事務所ではちょうど熊野古道関連の仕事が入り始めていた。
その後、熊野、高野、葛城と、紀伊半島の参詣道の仕事が継続することになり、私はバイトを通じて存分に自分の知的好奇心を満たすことができた。
聞くところによるとNさんは、当時私が魅了されていた「お山」にもほど近い、熊野の山中にルーツがあるということだった。
私が「お山」に通い始めたのはバイトを始める一年以上前なので、こうした巡りあわせは全くの偶然と言うことになる。
何か物事を学ぶとき、まず自分なりにできる修練を積んでいれば、おのずと良師は見つかるものだ――
そんなエピソードを物語の中でよく目にするが、私はそれに類する縁をもてたのかもしれない。
相応の修練を積んでいなければ、目の前に師がいても存在に気付けないということはあるだろう。
相応の素養を見せなければ、師の目にとまらないということもあるだろう。
私はあくまでNさんの事務所の古参バイトに過ぎなかったけれども、仕事内容と重なりながら、少しずれたところで私に伝えてもらった部分も、たぶんあっただろうと思う。
こんなこともあった。
連れ立って飲みに行った帰り、酔いを楽しみながらブラブラ歩いていると、Nさんが言った。
「なあ、事務所が立ちいかんようなったら、画塾でもやるか。今度は儲けるつもりで、金持ってる奥様方とか集めてな」
「いいっすねー。幽霊物件とか安く借りてやりましょう」
私はのりのりで答えた。
「そこらの地縛霊ぐらいやったら、俺勝てますから!」
こんなこともあった。
あれは確か、阪神大震災から一年後くらいのことだったと記憶しているが、Nさんに「一緒にボルネオに行かんか?」と誘ってもらった。
今から考えると、万難を排して付いていくべきだったと思う。
しかし当時の私は、震災その他で精神的に最も過敏になっていた時期で、人と海外の冒険旅行に出掛ける余裕がなかった。
まだ若かったので「また機会はあるやろ」と気楽に考えていたせいもあり、断ってしまった。
私は人生においてあまり後悔しない性質で、色々あったこともわりと肯定できる方なのだが、このことは今でもたまに「申し訳なかった」と思い返す。
Nさんにしてみれば、時間的にも体力的にも、残り少ない機会のつもりでお伴に誘ってくれたはずなのだ。
出会った頃のNさんの年齢に近づいてきた今になってみると、よくわかる気がする。
2000年代に入り、バイトを「卒業」してからは、Nさんと直接会う機会も少なくなった。
ご無沙汰なのでそろそろ顔を出しておこうかと思っていた2015年、Nさんの訃報があった。
もし今もう一度「なんの弟子なんや?」と聞かれたら、「ものの観方です」と答えたい。
もし今もう一度旅に誘ってもらったら、二つ返事で付いていきたいが、その機会はもうなくなった。
その数か月後、夢を見た。
本当のおわかれ
夢の中のNさんは、私に対して少し厳しい態度をとった。
それは私の知るNさんとしてかなり「リアル」な姿で、厳しくはあるけれども、その夢を見ることである意味救われた部分があった。
遍路でよく使われる言葉に「同行二人」というものがある。
これは「どうぎょうににん」と読み、金剛杖にも書かれている。
「遍路の道行きは、御大師様と二人連れ」
そんな意味がある。
弘法大師空海と二人連れということは、実際歩むのは自分ただ一人ということだ。
歩むも止まるも野垂れ死ぬも、たった一人。
一人の覚悟が決まってはじめて、「同行二人」は成立する。
二年経った先月、夢を見た。
仕事上がりに片づけをしていると、唐突にNさんが現れた。
これから久しぶりに飲みにいくから付き合えという。
私は翌日の仕事が早いことをほんの少しだけ気にしながらも、二つ返事で付いて行った。
(師匠Nさんについての記事はひとまず了。「へんろみち」は今しばらく続く)
2017年06月09日
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