五島勉「ノストラダムスの大予言」(祥伝社)が刊行されたのが1973年、少年マンガの世界でも「人類滅亡」が数多く描かれた。
中でも後のサブカルチャーへの影響と言う点では、「幻魔大戦」と「デビルマン」の二作品は特筆されるべきだろう。
●「幻魔大戦」平井和正/石森章太郎(秋田文庫)
1967年、週刊少年マガジン連載。
光と闇の戦いというテーマを超能力SFで描いた元祖のような作品。
連載自体は単行本二巻分で終了したが、髑髏が映し出された月が地球に落下してくるラストシーンは強烈で、長く読み継がれ、多くの続編が描かれることになる。
●「新幻魔大戦」平井和正/石森章太郎(秋田文庫)
1971年〜1974年、SFマガジン連載。
続編というより、「幻魔大戦」の世界をパラレルワールド的に拡大再構成し、新たな起点となった作品。
原作は小説形式で執筆されており、マンガの中で文章の占めるパートが大きい変則的な表現形式である。
後に原作自体も小説版として発表されている。
原典になった70年代前後の二作以降、原作者の平井和正の小説版、石森章太郎のマンガ版はそれぞれ別に描かれることになる。
石森マンガ版は1979年〜1981年、雑誌「リュウ」連載。
平井小説版は1979年〜86年頃まで執筆され、中断。
1983年には序盤ストーリーが角川アニメ第一作として劇場作品にもなっており、「ハルマゲドン」という言葉が一般化するきっかけとなった。
平井小説版が80年代サブカルチャーにもたらした影響は極めて大きい。
私も中高生の頃、まともにその波をかぶっていたのだが、それについてはまた記事をあらためて述べたい。
(平井小説版は2000年代に入ってから続編が描かれており、40年の時を経て1967年マンガ版に一つの決着が付けられた)
そして、いよいよ永井豪「デビルマン」のことである。
1972〜73年、週刊少年マガジン連載。
私は14歳の頃、はじめてこの漫画版を読んだ。
初出時からはかなり年数がたっていたが、昔は今よりずっと書店の本の回転が緩やかだったのだ。
それまでにも前回記事で紹介した石川賢「ウルトラマンタロウ」や、TVアニメの「デビルマン」「マジンガーZ」「ゲッターロボ」などは試聴していた。
私の世代は永井豪率いるダイナミックプロの作風で育ったような所があったのだ。
しかし、漫画「デビルマン」の衝撃は、それまでとは全くレベルが違っていた。
子供の頃好きだったアニメ版とは、基本設定に共通点はあるものの、ビジュアルもストーリーも完全に別物だったのだ。
凶悪なデーモンの合体を受け、狂った破壊衝動と正気の間でのた打ち回る主人公・不動明。
悪魔と合体しつつも、最後まで自分自身の精神を守った主人公の姿は、読んだ当時の14歳という年齢のもたらす不安定な精神状態と同期して、まるでわがことのように感じられた。
貪るように何度も繰り返し再読したため、コミック全五巻の内容を全て頭の中に再現できるようになった。
寝ても覚めても「デビルマン」のことを考え続け、街中で「ビル・マンション」と書いてある看板が視界に入ると思わず振り返ったこともあった(笑)
もちろん絵の模写もたくさん描いた。
今風に言うなら完全に「中二病」なのだが、読むこと、描くことで癒される何者かが、確実に当時の私の中にあったのだ。
私が「14歳の狂気」を乗り切れたのは、この漫画「デビルマン」のおかげと言っても過言ではない。
そしてはるかに時を経た2000年代、CGをはじめたばかりの頃、ペンタブレットの練習に、中高生の頃から描き慣れたデビルマンの絵を何枚も描いた。
中々思い通りに動いてくれないカーソルをリハビリのようなつもりでのたくらせながら、ひたすら描いた。
絵描きとしてもう一度生まれなおすつもりで、ただ黙々と懐かしい「デビルマン」のキャラクター達を描き続けるうちに、思春期の頃、明確な意志をもって絵を描き始めた時の熱が、私の中に蘇ってきた。
同じ時期、悪評高い実写版映画「デビルマン」が公開された。
いい年こいて大人げないとは思いながらも黙っていることができなくて、当時全盛期だった某巨大ネット掲示板の当該スレッドで、固定HNで実写版批判の急先鋒に立ったこともあった(笑)
スレッドで「同志」の皆さんと交流しながら、ネットでのやりとりについて多くのことを学んだ。
大人になってからも、私は「デビルマン」に支えてもらったのだ。
今現在「自分の中の凶暴な何者か」と対決中の少年少女には是非手に取ってほしい本作だが、入手の際には注意が必要だ。
多くの加筆バージョンや続編が刊行されているので、なるべく初出に近いものを手に取ってほしいのだ。
敬愛してやまない永井豪先生には大変申し訳ないのだが、この作品ばかりは加筆が入る度にバランスが悪くなっていくように感じる。
絵描き目線で言えば、技術的に未熟(と本人には思える)な過去の絵を直したくなる心情は痛いほどわかる。
しかし作品というものは時として、作家自身にすらうかつに手を出せない、危ういバランスの上に成立した脆く美しい結晶体になるもののようだ。
後年の加筆が少ないバージョンで、今現在入手し易いのが、以下の三種である。
●「デビルマン 愛蔵版」永井豪(KCデラックス)
●「デビルマン 全三巻」永井豪(KCスペシャル)
●「デビルマン 完全復刻盤 全五巻」永井豪(KCコミックス)
序盤の作画にはさすがに時代を感じるが、ストーリーの衝撃は全く色褪せない。
デーモンの無差別合体、第一次総攻撃を受け、人類が疑心暗鬼から相互に監視し合い、殺し合って自滅していく展開は、テロと分断の時代を迎えた今読むと、改めて慄然とさせられるのである。
70年代からサブカルチャーにおける終末ブームは何度も繰り返されてきた。
記事中で紹介した代表的な作品は、多くのフォロワーを生み、作者自身のリバイバルも重ねらられたが、繰り返されることにはそれなりの理由がある。
その終末描写にリアリティを与えているのは、他ならぬ現実の社会なのだ。
(続く)