遍路の魅力は「日常からの遊離」にある。
被災生活はそれ自体が強烈な「非日常」だったので、わざわざ遍路に出かけようという衝動が湧かなかったという表現もできるだろう。
被災体験と、それに続くカルト教団のテロ事件に衝撃を受け、私の中に元々あった孤独癖は限りなく昂進した。
それは当時、舞台美術スタッフとして参加していた演劇活動を続けるのが困難になるほどだった。
祭の影-1
祭の影-2
なんとか被災生活を潜り抜け、演劇活動に一区切りをつけた96年夏、久々に熊野へ出かけたい気分になった。
当時お世話になっていた師匠の事務所では、偶然熊野古道関連の仕事をやっていた。
それまでにも断片的に熊野は体験していたが、バイトを通じて知識や認識が広がり、またうずうずと旅の虫が蠢き始めた。
その頃の私は、他の何よりも孤独に浸ることを求めていたのだ。
熊野古道にはいくつかのルートがある。
【中辺路】
紀伊田辺から熊野本宮大社に至る山越えの道。ハイキングコースとして整備されており、車道が並行していてアクセスし易いので人気が高い。
その他のルートは以下の通り。
【紀伊路】
大阪天満あたりからはじまり、和歌山市を経て紀伊田辺に至る、平坦な区間の多い道。
【大辺路】
紀伊田辺から那智の浜、新宮速玉大社へと至る海辺の道。
奈良県五條から十津川、十津川温泉を経て熊野本宮大社に至「十津川路」や、伊勢方面から新宮速玉大社に至る「伊勢路」もあるが、ここまで紹介した五本の道は現在大半が国道に重なっているので、「古道」の風情は部分的に味わえるにとどまる。
現在でも車道とほとんど重なっておらず、地道がよく残っているルートもある。
【雲取越】
那智大社と熊野本宮大社をほぼ直線でつなぐ、かなりアップダウンの多い山道。
そして、当時の私の目にとまったのが、以下のルートだった。
【小辺路】
高野山と熊野本宮大社をほぼ直線でつなぐ、かなりアップダウンの多い山道。
地図上では直進であっても、場所は紀伊半島の真ん中の山岳地帯である。
実際はかなり険しい登山道を二泊三日で歩き切らなければならず、山中泊も含まれる。
完全な修験者むけである大峰奥駆けルートはのぞくとして、いわゆる「熊野古道」の中で最もキツいのが、この小辺路ルートなのだ。
それ以前、90年代前半の私の遍路は、好きだった「お山」や熊野本宮周辺を、寝泊まりしながら歩きまわる程度だった。
ほんの真似事のようなものだったと言ってよい。
これだけの難路に挑戦するのは初めてである。
不安はあったが、被災体験後のヤケクソな心情もあり、思い切り自分をいじめてみたい衝動に駆られ、出発することにした。
決定を下してしまうと心はむしろ軽くなった。
私はお盆前後の休暇の日程に向けて、一週間前くらいからあれこれ装備を整え、「精進潔斎」で粗食に努めた。
ふと思い立って、オリジナルTシャツも作ってみた。
密教系の梵字をあしらったデザインで、3種類ほど作ったはずだ。
プリントにはステンシルの手法を使い、無地のTシャツさえあれば手作業で作れるようにした。
着替えを用意するついでに、ほんの思い付きでやったことだったが、オリジナルTシャツ作りはその後もずっと続けて今に至っている。
当時描いたデザインの中の一つが胎蔵種字マンダラで、このブログでもアップしたデザインの第一稿になった。
近年、フリーマーケットで「縁日屋」を出店した際の、一番人気になっている。

私が小辺路を目指したのは、ぶっちゃけ「現実逃避」もあったと思う。
しかし、逃げて何が悪い。
色々抱え、頭がパンパンに煮詰まった時は、身体を使って全力で逃げるのが一番で、元々遍路とはそうしたものなのだ。
(続く)