熊野遍路をやや本格的にスタートさせたのも同じ頃だった。
私にとっての遍路は、本で得た知識を実地で確かめる体験でもあった。
遍路では、いくつかの祝詞や真言、般若心経や和讃をよく唱えた。
そうした唱えことばは、遍路の現場ではかなり「実用的」な機能を持っていた。
山中で精根尽き果てた時にはお不動さまの真言に助けられた。
清々しい社に至った時に祝詞を奏上すると、自分の中の感動を乗せることができた。
海辺の古道を歩く時、念仏和讃のゆったりとしたリズムは、波音にシンクロして心地良かった。
後にDTMで試みた「音遊び」には、遍路の途上で唱えたイメージが反映されている。
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知識と実体験という意味では、熊野遍路に限らず、色々な場所を「巡礼」した。
仕事で行く機会のあった沖縄以外は、近畿地方が中心だった。
住んでいる場所から近いということももちろんあったが、当時の主な興味の対象が近畿地方にあったということがまず大きい。
天理教の泥海神話に関心を持てば天理市に行き、大本に興味が湧けば丹後・丹波の各地を経巡った。
特定の宗教、宗派ではないが、六甲山系に点在する「磐座」に興味を持ち、有名無名を問わず、巨石を求めて山中をさまよったこともあった。
お地蔵さまのことが気になり始めたのも、その頃のことだった。
普段の散歩でお地蔵さまを見つけると、写真を撮ったりスケッチするようになった。
関西では地蔵盆が盛んなので、毎年夏休みの終り頃には良い風景、良いスケッチが体験できた。
そうした体験の蓄積は、カテゴリ地蔵で一部紹介してきた。
私は根っこの部分ではやはり絵描きなので、本を読んだり遍路をしたりする中でも、スケッチだけは続けていた。
たまにアクリル絵の具でサイズの大きな作品を描こうと試みるのだが、なかなか形を成さなかった。
当時はとにかくスケッチ、素描ばかりしていた。
仏画や仏像の資料を見ながら描き写した。
山水図の類を見ながら描き写した。
たびたび動物園に行っては、飼育舎の端っこから順番にクロッキーして回った。
植物を観察しては、スケッチした。
バイトで必要に迫られれば、建築物の資料等も丸写しで練習した。
少しでも関心のある図版はとにかく筆写した。
誰に見せるわけでもなく、発表のあてもないスケッチを黙々と続けていた。
劇団から離れ、他にやることもないので、ただただ描いた。
今ならそうした日々のスケッチをアップするためのSNSの類に事欠かないけれども、当時はまだネットの普及前の90年代である。
私のような絵描きに限らず、あの頃表現を志す者は、とにかく人に見せることを前提としない「自主練」を、よくやっていた。
役者をやっていた友人は、好きな脚本を片手に、毎日のように公演のあてのない一人練習をやっていた。
今考えてみると、そうした自主練は「同行二人」の遍路とどこか通じる、得難い経験だったと思うのだ。
(続く)