参拝だけが目的なら、交通機関を使用した方が効率が手っ取り早い。
しかし、そうした効率の良さからは生まれない感受性の世界がある。
古道の自然に包まれ、大量の汗をかき、湧水を飲み、何日もかけて歩き通す過程を経ないと見えない風景というものがあるのだ。
それを見たら、再び日常生活にかえる。
それだけのことだった。
宗教書を読んで、本当に何かが分かるわけではない。
ただ知識が増えるだけだ。
知識が増えれば増えただけ、何も知らない自分に気付き、疑問や迷いはかえって増えていく。
遍路に行って、何かが変わるわけではない。
どれだけ遠くまで歩いても、自分自身からは一歩も離れられない。
ただどうしようもない自分を再確認するだけだ。
読書も遍路も、いつまでたっても届かない蜃気楼を追っているのと似ている。
しかし、全くの無意味ということでもない。
知識の範囲を認識できれば、自分がどれだけものを知らないかということは分かる。
遍路でぶっ倒れるまで歩いてみれば、世界の広さと、自分の足で歩める範囲は体感できる。
己の身の丈だけは、なんとなく分かるようになるのだ。
本を読んで何かが分かったと感じたり、遍路を通じて自分が変われたと感じるのは、錯覚に過ぎない。
さんざん読んで歩いても、そんな勘違いをしなかったのは、我ながら上出来だったと思う。
同時に、安易に「あるがまま」で充足せず、自主練を積み続けたことも、上出来だったと思う。
私には絵を描くという「重石」があった。
賢くなりたいとか癒されたいとかいう欲は、ゼロではないけれども、比重としては軽かった。
どこまで行っても絵描きなので、絵さえ描ければそれで良かった。
さんざん本を読んで、さんざん遍路で歩き回った末にむかえた2000年代、私はこじらせた孤独癖が少しだけ減じているのに気が付いた。
描きたい絵の世界がおぼろげながら見え始めていた。
そして、まだ娑婆でやれることがありそうだと思えるようになっていた。
(「へんろみち」の章、了)