アウトローを主人公とした物語が好まれる傾向は時代を超えていて、直接的には江戸時代あたりまで遡ることができるだろう。
近代に入ってからも、たとえば浪曲のヒーローは大半がやくざ者であり、サブカルチャーの世界ではむしろそれが主流であったと言っても良い。
少年マンガは戦後長らく子供向けサブカルチャーの華であったが、前回記事で挙げた60年代から70年代にかけての不良少年のバトルものは、おそらく先行する浪曲の世界や、同時代に流行したやくざ映画の影響を受けているはずだ。
●「ハリスの旋風」ちばてつや(65〜67年、週刊少年マガジン)
●「夕焼け番長」原作:梶原一騎、作画:荘司としお(67〜71年、冒険王)
●「男一匹ガキ大将」本宮ひろ志(68〜73年、週刊少年ジャンプ)
主人公の多くは「ケンカ自慢の不良」とは言うものの、恐喝等の犯罪行為や集団暴力に関与することは無い。
組織を嫌う一匹狼タイプであることが多く、一般生徒に手を出したり、犯罪行為を行う「悪い不良」を懲らしめ、改心させる役割を担う。
こうした作劇は、浪曲等に登場する「良いヤクザ」の任侠の世界観そのままで、ストーリー自体も下敷きにされている場合が多々ある。
そこに対象年齢を低くするための少年マンガ的な設定が加えられる。
物語冒頭は学園等の子供の日常空間を舞台とし、主人公はそこに通学する中高生とする。
バトルは「素手のタイマン」(一対一で武器は使用しない)が基本ルールで、あくまで「遺恨を残さない子供のケンカ」の範囲内で決着が付けられ、生死にかかわることはあまりない。
舞台設定が身近な「地元」からじわじわ拡大し、「強さのインフレ」とともに広域化して行く傾向は、現実の戦後やくざの抗争広域化、それをネタにした映画作品の影響があるかもしれない。
主人公は「純情硬派」タイプで、性的にはむしろ潔癖であることが多い。
こうして列挙してみると、ウケるための二大要素である「バイオレンス」「エロ」に一定の歯止めがかけられているのがわかる。
不良を主人公とした少年マンガ作品が、アウトロー的な世界を描いているにもかかわらず、社会問題化することが少ないのもうなずけるのである。
前回記事で挙げた80年代後半のヤンキーバトル漫画の代表作も、基本的にはこうした世界観の枠内にある。
●「Let'sダチ公」原作:積木爆(立原あゆみ)、作画:木村知夫(85〜88年、週刊少年チャンピオン)
●「押忍!!空手部」高橋幸二(85〜96年、週刊ヤングジャンプ)
●「ろくでなしBLUES」森田まさのり(88〜97年、週刊少年ジャンプ)
そこで描かれるのは、義理人情、純情硬派、弱きをたすけ強きをくじく任侠道など、極めて古風な倫理観である。
そしてもうひとつ挙げるとするなら、80年代半ば以降目立って強化されていった管理教育から離れた、不良仲間の互助的共同体意識だ。
それらが現実世界のヤンキーの実態とはかけ離れた、一種のファンタジーであることは、読者の大半が理解していたことだろう。
やくざ映画を観て実際にやくざになる人間がまずいないように、ヤンキーマンガを読んだことが原因で子供がヤンキーになるようなことは、まずない。
やくざ映画が好きなやくざ、ヤンキーマンガの好きなヤンキーは多数存在するだろうけれども、それは全く別の話だ。
フィクションにはある種の「理想」が描かれるので、「アウトローものを楽しめるアウトロー」にはまだ救いがあるとも言える。
サブカルチャーにはいくつか「これを描けばウケやすい」という主要テーマがあり、アウトローものはその中のひとつであるにすぎない。
とくに少年誌におけるヤンキーマンガは、内容的にはむしろ「毒」の少ない、健全な部類に入るのだ。
(続く)