2015年刊の本を一冊、このカテゴリ「積ん読崩し」で紹介。
ずっと関心のあるテーマの本だったので刊行間もなく確保していたが、当時は他に優先的に考えなければならないことが多くて、積みっぱなしになっていた。
私の個人的な機が熟し、最近ようやく読み通した。
90年代、テロ事件を起こしたカルト教祖の三女による、二十年越しの手記である。
●「止まった時計」松本麗華(講談社)
一応確認しておくと、著者は事件当時12歳。
教祖の娘でホーリーネームを持ち、教団内のステージが高かったとは言え、事件にいかなる関与もしえない立場にあった。
事件後も、基本的には教団組織から距離を置くことに努めており、経済的な支援も受けずに成人している。
父である教祖から一方的に与えられた「宗教的権威」のせいで、彼女は教団外からは徹底的に疎外され、教団内では常に権力争いに巻き込まれ続けてきた。
私は、事件の実行犯や指導的立場にあった者については、徹底的に法で裁くことに異論はない。
しかし、とりわけ「カルトの子」である事件当時の年少者については、しかるべき受け入れ態勢を社会の側が整えるべきだったのではないかと考える。
実際には、著者は公安当局やマスコミの厳重な監視下に置かれ、ことあるごとに教団内の内紛に利用され、どこにも居場所を与えられないままだった。
幾重にも取り囲むハードルの中で、一生徒として普通に学校生活を送りたいというささやかな願いすら、大学入学までかなえられることは無かったのだ。
彼女の目には、教団内も、そしてこの日本という国も、等しく理不尽で荒れ果てた世界として映ったのではないだろうか。
著者の目からみた教祖像にも、痛々しいものを感じた。
当り前のことであるが、かの教祖も娘にとっては「大好きな父」であったのだ。
カルト教祖とは言え、常時狂った犯罪者で在り続けるわけではない。
普段の生活の中で、演技などではなく、子どもに対しては慈父であり、弟子に対しては頼れる師であった時間も、間違いなくあったのだ。
そうでなければ、一万人を超える規模で人を集め、熱狂に駆り立てることは逆に不可能だ。
教祖の視覚障害が進行し、熱狂的な弟子を経由した情報しか入らなくなる過程の描写は、教団暴走の重要な鍵になると思われるのである。
かの教祖には多面性があったことは間違いないが、著者はとくに「善意」の部分に多く接してきたのだろう。
併せて読むことでより立体的な教祖像が浮き彫りになると思われるのが、2006年刊の以下の一冊。
●「麻原彰晃の誕生」高山文彦(文春新書)
後に教祖となる一人の男。
ハンディキャップを抱えた少年期から青年期にかけて、そして教団を率いるようになって以後の彼を直接知る、主に教団外の人々からの丹念な聞き取りを集積した一冊。
盲学校時代の教師、薬事法違反の際取り調べに当たった刑事、近所の寿司屋店主の証言は、ほぼ等身大の教祖を描き出している。
とくに、戸籍名ではない教祖名の「名づけ親」とも言える人物について、触れてある書籍は少ないのではないだろうか。
近代日本で創作された偽史の副産物「ヒヒイロカネ」にまつわる異聞も、80年代オカルトを楽しんできた者としては大変興味深かった。
先に紹介した三女による手記ではエキセントリックな印象ばかりが強い教祖の妻についても、そこに至るまでの境遇を想えば、別角度の捉え方があり得ると感じる。
背負ったハンデと戦う「しぶとい俗物」としての教祖像は、同じ俗物の身として、ふと共感してしまう部分もある。
単純な異物排除と、単純な帰依。
その両方が、一人の男の中で起こったハルマゲドンを、社会に拡大投射する様が視えてくる。
2017年11月19日
この記事へのコメント
コメントを書く