2017年12月21日

青春ハルマゲドン7

 私の大学生時代は、90年代初頭とほぼ重なる。
 その頃まだインターネットは存在せず、ケータイも一般化していなかった。
 固定電話、フィルムカメラ、ビデオテープ、紙媒体中心のアナログ時代最終盤にあたり、ようやくレコードがCDに切り替わったくらいのタイミングだったので、学生の生活風景は80年代とさほど変わりなかっただろう。
 既にバブルは崩壊していたが、まだまだ日本経済には余裕があり、合コンやダンスパーティー、レジャーを謳歌する学生も多かった。
 私はと言えば、そうした種類の「遊び」とはあまり縁のない学生生活を送っていた。
 遊ぶにしてもそれなりの素養は必要で、中高生の頃からレジャーに親しんでいないと、スムーズに大学デビューとはいかないものだ。
 私のようにカルト受験校出身で、勉強以外ではサブカルや造形くらいしか知らない田舎モンは、合コンの何が楽しいのか全然わからなかったりして完全に出遅れる。
 受験校出身とは言え、あくまで私は「斜めにかわした」フェイクだったが、このあたりの感覚はあまり遊ばず真面目に勉強してきた地方出身学生とも共通していたと思う。
 勉強漬けからいきなり解放された学生は、「遊び」に馴染めず一人ぼそぼそ昼飯を食うとか、免疫が無くて逆に「遊び」に溺れ、勉強が手につかなくなるとか、そんなケースも多かったことだろう。
 一時的にそうなっても、最終的に娑婆に着地できるなら、特に問題はない。

 いわゆる「遊び」には馴染めなかった私だが、しっかり勉強していたのかと言えば、もちろんそうではなかった。
 別種の「遊び」、中高生の頃から引き続き、サブカル漬けであった。
 一回生の頃から文芸系サークルや演劇サークルに出入りし、同人誌を作ったり、8mm映像で遊んだり、舞台美術や宣伝美術にいそしんでいた。
 専門に上がってからは美術の実習が増え、そちらは大いに意欲を持てたので、授業はけっこう真面目に出ていた。
 単位数こそ必要最低限だったが、評価自体はけっこう良かったはずだ。
 当時私が出入りしていた学科、サークルともに、先輩や同級生が多士済々で、拙いながら「創作」の楽しみを存分に味わっていた。
 合コンは苦手だったが、創作系サークルの飲み会で「語る」のは大好きだった。
 周囲に恵まれ過ぎたといっても良いかもしれない。
 大いに刺激を受け、いっぱいモノを創り、貪るように本を読んだ。
 折しも、日本の出版文化がピークに向かう時期だった。
 毎日のように通う書店のお目当ての本棚には、宗教のコーナーも含まれていた。

 80年代後半から90年代初頭にかけては、いわゆる「新新宗教」に勢いがあった頃で、著名人の「霊言」で有名になった教団や、数年後にテロ事件を起こすことになる教団が、活発に本を出していた時期にあたる。
 両教団の出版物は、ともに一般書店の一画を占めるようになっていたが、学生当時の私はパラパラめくってみてすぐに「これはフェイクだ」と判別した。
 どちらも内容や世界観にオリジナリティが乏しく、80年代オカルトサブカルチャーを下敷きにしているのが明らかだった。

 80年代オカルトサブカルのネタ元

 とくに「霊言教団」の方は、私の目には「丸パクリ」のレベルに見え、論外だった。
 後のテロ教団の方も、教祖名義の本にいくつか「元ネタ」があるのは分かったし、そもそも私はかの教祖がまだ教祖になる前、80年代に雑誌「ムー」の読者投稿欄に登場した頃から誌上で見知っていた。
 宗教というより、オカルトサブカルチャー畑の人間だと認識していたのだが、いつの間にか教祖になり、記事ではなく教団の広告ページに登場するようになってしまい、その時点で興ざめしていた。
 何らかの修行体験はあったのだろうけれども、それをまとめた教義、書籍が「サブカルとして楽しめる」レベルに達していなかった。
 オカルト界隈では、よく「水準に達していないフィクションを実録と称して売る」ケースが見られるが、そんな中の一つに見えたのだ。
 そうしたケースは、書籍販売やタレント活動など「薄く広く」利益を集める範囲においてはさほど罪はなく、許容範囲かもしれない。
 しかし、かの教祖・教団の場合は、90年代には既に高額なセミナーを開催したり、財産をお布施した上での出家制度を作ったりという危険領域まで足を踏み入れていた。
 実はこの頃から殺人等の十代犯罪に手を染めていたことも後に明らかになるのだが、そうした実情に触れるまでもなく、私にとってはチラ見した本の内容だけで十分「アウト!」だった。

 今の時点で振り返ってみるなら、かの教祖・教団について「おそらくこうだったのではないか」と想像をめぐらすことも、いくらかはできる。
 とくに信者側については、同じ時代風景を見てきた「同世代」であったし、感性においてもかなり共通するものはあったと、あらためて認めざるを得ない。

 それは、幼少の頃から「人為的な終末」が現実的な可能性として存在した世代である。
 それは、サブカルチャーとしての「終末ブーム」を、存分に浴びて育った世代である。
 それは、訓練を積んでステージをクリアーすると、経験値が数値化される世界観に馴染んだ、コンピューターゲーム第一世代である。
 それは、厳しい受験競争を強いられながら、同時に消費行動を煽られ続けた世代である。

 幼少の頃から数年刻みで設定された「修行」のステージを、与えられるままに次々にクリアーしていけば、いつか「夢の未来」に辿り着けるはずだった。
 だからこそ、世に溢れる物質的な快楽に背を向けて、懸命に修行に励むことができた。
 破滅に瀕したこの世界に対して、ステージを上げた未来の自分には活躍の場が与えられ、何かが出来るはずだった。
 ところが、そうした修行のプロセスの完成間近になって、自分の進んできた道にふと疑問が兆したとしたら、どうか。
 現実世界はそんなにシンプルには出来ていないと気付いてしまったとしたら……

 ここで、直接面識は無いけれども私の高校の先輩にあたり、事件に関与してしまった人の軌跡に、簡単ではあるけれども触れておきたい。

 86年、受験エリートとして大学入学、同時期に後の教祖の著作を手に取り、感銘を受ける。
 同年、教団の前身であるヨガサークルに入会。
 サークルが教団化した後も在家のまま大学で学び、博士課程まで進んだ92年、教祖に促されて突然出家。
 以後、教団の犯罪行為に関与することになる。

 私の想像が、先輩のケースとどの程度適合しているかはわからないけれども、やはり「痛ましい」と感じてしまうのである。

【参考文献】

●「さよなら、サイレント・ネイビー 地下鉄に乗った同級生」伊東乾(集英社文庫)


 教祖側については、想像できることはずっと少ない。
 世代が違うし、生い立ちの過酷さは想像を絶する。
 ただ、私は元弱視児童として、そして、しょせん「本物」には成れぬフェイクの自覚を持つものとして、かの教祖に幾ばくかの感情移入はある。

 青年期までの来歴だけを見るならば、生家の経済的困窮や身体的なハンデにも関わらず、懸命に生き抜いてきた人だとは思う。
 講道館の二段を取り、鍼灸の技量を身に付けていたことから、身体的な修行に関する素養を持っていたのは明らかだ。
 苦労の中で練り上げられた洞察力や対人スキルは、かなり高かったのだろう。
 年少者に対し「指導」できる人間的な厚みが、全く無かったとは言わない。
 地道に鍼灸院を続けていたなら、あるいはヨガサークルの指導者で満足していたなら、自分も家族も周囲も、全部幸せに出来ていたのではないかと思う、

 教祖名Aと、等身大である本名Mの間の乖離に、かの教団の「闇」が垣間見える。
 なぜ、そこまでして演じなければならなかったのか?
 破滅に瀕した物質文明の迷える若者たちに対し、「魂の進化」というステージアップゲーム、巧妙な疑似餌を投げ与えたのは、果たして偶然か、必然か。
 信者の数が増えるほどに、教祖側の演技過剰と、信者側の期待の圧力、そして忖度による教団組織の自走は加速していっただろう。
 そして教祖名Aを、どうにかこうにか演じていた本名Mの、精神的・肉体的負担が限界に達し、背負いきれなくなったとき……

 いま想像できるのは、ここまでだ。
(続く)
posted by 九郎 at 17:56| Comment(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする
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