状況から「入水自殺」とされているようだが、一種の「自決」ではないだろうか。
私は世代的に、90年代「朝生」での激論から西部邁を知った。
私はまあ、当時からパワーバランスとしての心情左翼だったので、TVでの論客ぶりはあまり好きではなかった。
それでもたまに「本音」や「情」が垣間見える瞬間があって、保守派の中でも別格的に気になる存在ではあった。
2000年代以降は、佐高信や宮崎学ら「左」の論客との対談本はよく読んだ。
その頃になってはじめて、西部邁の真価に触れた気がした。
自殺という在り方は簡単には肯定できない。
しかし西部邁のような人が、自分の「生き方」として選んだであろう死を、簡単に否定することもできない気はする。
直接関係ないけれども、最近ふと気になった呟きがあった。
もと衆院議員で精神科医の水島広子さんのTwitterでの投稿だ。
以下に引用してみよう。
私がよく患者さんに言うこと。「人間はなぜ生きなければならないのだろうか」という感じの悩みは、うつの症状だと思います。なぜなら、治ると現実生活に充実感が出てくるので「そんなこと考えても仕方ない」になるからです。闇をいくら探しても闇しかないのです。どうぞ光に触れてください。
これも、まあ一般的にはその通りではないかと思う。
ただ、何か表現をしようとする人間は、闇を丹念に掘り返す作業が必須ではないかとも思う。
振り返ってみると90年代後半の私は、当時そのような認識は持っていなかったが、「うつ」に片足くらいは突っ込んでいたのかもしれない。
祭の影-1
祭の影-2
自分なりに延々と「闇」を掘り返し続けながらも、娑婆でやっていく気になれたのは、様々な出会いのおかげだ。
本をさがして-1
本をさがして-2
本をさがして-3
本をさがして-4
へんろみち-1
へんろみち-2
へんろみち-3
へんろみち-4
今の時点では、私が「自ら命を絶つ」という選択肢はない。
基本的に、生老病死は「自然」に属するものであって、人為で制御するものではないと考える。
思いがけず「授かる」のが命で、自然現象なのだから、急に電車の中で生まれてしまうことだってある。
生まれてくる命は、前提として肯定すべしと考える。
そして、思いがけずやってくる病や死に対して、できるのはリアクションだけだ。
良いリアクションができるよう、精進はしたい。
まとまらぬままに、いずれ来る死を折々で考える。