今では珍しくなった「名画座」が、近所にある。
二本立てで入れ替え無し、途中入場可で、大人1500円。
新作映画の一般劇場公開が終了して数か月経ち、ソフト化される前後のタイミングで上映されることが多い。
一週間ごとに上映プログラムは切り替わり、大抵はメインの人気映画と、それに傾向の似たややマイナーな作品がカップリングされる。
ごく近所なので、仕事のシフト変更でぽっかり時間が空いた時など、好みの作品が上映されていれば利用している。
たまに、ものすごい「当り」のプログラムに出くわすことがある。
何年か前、バットマンの「ダークナイト三部作」を三週連続で上映してくれた時は驚喜した。
しばらく前にも大サービスの週があり、「ブレードランナー ファイナル・カット」と「ブレードランナー2049」の二本立てがあった。
新作の方は映画館で観逃がしていたので、このチャンスは逃せない。
時間の関係でメインの一本だけ観ることも多いのだが、その日ばかりは二本とも続けて鑑賞。
ものすごく贅沢で濃密な時間を過ごすことができた。
82年の「ブレードランナー」第一作公開時、私はまだガンプラ少年で、この大人びた作品は興味の対象外だった。
その後の中高生の頃、同じリドリー・スコット監督の「エイリアン」には強烈な印象を受けていたが、「ブレードランナー」の方は「噂で聞いている」という程度だったはずだ。
もしかしたらTV放映等で一度くらいは観ていたかもしれないが、はっきりした記憶はない。
確実に印象に残っているのは、さらに年月の経った92年の「ディレクターズ・カット版(最終版)」で、こちらは何度も繰り返しビデオで観た。
年齢的に、私はその頃ようやく「ブレードランナー」鑑賞の「適齢期」になっていたのだろう。
自分の人格とか記憶と言ったものが、さほど確固としたものではなく、もしかしたらフェイクかもしれない――
ふとそんな感覚を抱き、そうした疑念をテーマにした作品にどっぷりハマるには、それぞれが相応の発達段階になっていることが前提になる。
そうしたタイプの作品については、以前にも一度記事で触れたことがある。
フェイクがどうした!
この「ブレードランナー」は、初公開時興行的にはふるわなかったものの、80年代における「その種の作品」の本家本元みたいなカルト映画だった。
作中の設定年代に、そろそろ現実が追い付こうとしているが、それでも時代を超えて古びない映像と、観る者の想像に任せる「余白部分」の多さが、繰り返しの鑑賞を可能にしているのだと思う。
静けさと沈鬱と優しさ、感傷。
映像が極めて重要な作品ではあるけれども、それに留まらない多様な「読み方」ができる、陳腐な表現になるが、やはり「文学的」という他ない映画なのだ。
新作の「ブレードランナー2049」は、三十年以上の時を経て制作され、作中でも三十年が経過した正統な「続編」にあたる。
長い時を経て、監督が交代した続編と言うことで、ちょっと不安を抱いていたけれども、観て本当に良かったと思う。
それも、同じ映画館の中で第一作と続けて観られたことは、理想的な鑑賞体験だった。
ネタバレを避けて端的に紹介するなら、あの第一作に耽溺した日々の思いを、再び鮮烈にプレイバックするための続編だったのではないだろうか。
間もなくソフト化されるようなので、公開時に観逃がした第一作のファンは、是非とも手に取ってみて欲しい。
私はさほどコアな映画ファンではないので、映像ソフトを手元に置くほどハマった作品は数少ない。
そんな私が、劇場での鑑賞に続いてDVDを予約注文してしまったのだ(笑)
映像が手元に届き、何度か観返したら、がっつりネタバレ入りの感想を書いてみたいと思う。
劇場で観たとき九郎さんの先日の記事も思い出しました。
某巨大掲示板で主人公のことを
「現実世界では冴えなくて二次嫁(架空の存在)に癒しを求めるオタク」と評したコメントを見たらいきなり感情移入できてもう胸が痛い(笑)。
ラスト近くの巨大広告のシーンでは「星の王子さま」を連想しました。
自分の愛した「バラ」がありふれた花と知り失望したのか、それとも唯一無二の存在だったと再確認したのか、醒めた目で広告を眺める主人公の感情はどちらだったのかと今もときどき思います。
主人公Kの「二次嫁」は、ちょっと反則なくらい可憐で健気で、その上ドラえもんに出てくる「ロボ子」みたいな怖さもありましたね。
そして、さんざん主人公カップルに感情移入させられた後の、あの巨大広告。
ラストに向かうKの心情は、観ようによっては正反対の解釈が出来そうで、余韻が残りました。
あの、真っ白な雪に横たわるイメージを、各自どう感じるか……
「2049」単体でも十分鑑賞できますし、そこから遡って第一作を観ても楽しめるように計算されている作品だと思いました。