2018年07月27日

抜け忍サブカルチャー3:学生時代から成人後

 90年代以降、学生時代から成人後にかけては、「抜け忍モノ」の構造を持つハリウッド映画に心惹かれることが多かった。
 映画については、ヒット作以外に渉猟して観るほどのファンではない。
 CMなどで目に付く作品の中から好みのものを拾っていくうちに、後から振り返ってみると「抜け忍モノ」が多くなっていたということだと思う。

 ちょうど成人したくらいのタイミングで観て印象に残ったのが、「ブレードランナー」だった。


●映画「ブレードランナー」リドリー・スコット監督(82公開)
 労働用に生産された人造人間「レプリカント」の逃亡者チームと、それを追う捜査員「ブレードランナー」の攻防を描く作品。
 82年初公開時からカルト的な人気を誇っていたが、当時の私はまだ子供で、この大人びた作品は興味の対象外だった。
 その後の中高生の頃、同じリドリー・スコット監督の「エイリアン」には強烈な印象を受けていたが、「ブレードランナー」の方は「噂で聞いている」という程度だった。
 確実に印象に残っているのは、92年の「ディレクターズ・カット版」で、こちらは何度も繰り返しビデオで観た。
 年齢的に、私はその頃ようやく「ブレードランナー」鑑賞の「適齢期」になっていたのだろう。
 自分の人格とか記憶と言ったものが、さほど確固としたものではなく、もしかしたらフェイクかもしれない――
 ふとそんな感覚を抱き、そうした疑念をテーマにした作品にどっぷりハマるには、それぞれが相応の発達段階になっていることが前提になる。
 そうしたタイプの作品については、以前にも一度記事で触れたことがある。

 フェイクがどうした!

 この「ブレードランナー」は、初公開時興行的にはふるわなかったものの、80年代における「その種の作品」の本家本元みたいなカルト映画だった。
 作中の設定年代に、そろそろ現実が追い付こうとしているが、それでも時代を超えて古びない映像と、観る者の想像に任せる「余白部分」の多さが、繰り返しの鑑賞を可能にしているのだと思う。
 沈鬱と優しさ、感傷。
 映像が極めて重要な作品ではあるけれども、それに留まらない多様な「読み方」ができる、陳腐な表現になるが、やはり「文学的」という他ない映画なのだ。
 主人公のデッカードがレプリカントであるかどうかについては、劇中では明確にされておらず、ファンの間でも様々な受け止め方があるが、監督の意識の中でははっきりと答えがあるようだ。
 敵役のレプリカントチームのまとう悲劇的な雰囲気は間違いなく「抜け忍モノ」である。
 また、デッカードの出自や恋人レプリカントのレイチェルと逃亡するラストシーンを考えると、「抜け忍」のイメージはかなり重層的になってくる。

 そして、三十年以上の時を経て昨年公開の「ブレードランナー2049」は、作中でも三十年が経過した正統な続編にあたる。
 監督が交代したと言うことで、ちょっと不安を抱いていたけれども、全くの杞憂だった。
 単独でも楽しめるし、観ることがそのまま第一作の観方を豊かに掘り下げることになる、そんな上質の続編である。


●映画「ブレードランナー2049」ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督(17公開)

     *    *     *

 ハリウッド映画のヒットのパターンの一つに、西欧文化圏の若者が他民族社会に「進駐」したものの、その世界に魅了され、配偶者を得ることで「裏切者」になるというものがある。
 私が今すぐに思いつくのは以下の三作。


●映画「ダンス・ウイズ・ウルブズ」ケビン・コスナー監督(90公開)
●映画「ラストサムライ」エドワード・ズウィック監督(03公開)
●映画「アバター」ジェームズ・キャメロン監督(09公開)

 制作年も監督も主演も異なるが、物語の構造はほぼ同一で、にも関わらず吸い寄せられるように観て、同じように面白かった。
 主人公の若者は、西欧文明由来の戦闘力を持ちながらも、滅びゆく民族文化を守るための戦士となる。
 この構図は、今から考えると「抜け忍モノ」そのものだったのだ。
 ここに挙げた三作は、一応リアルを志向した作品から完全なファンタジーまで、フィクションの度合いに濃淡がある。
 しかし、いずれも滅びゆく豊かな世界への郷愁が描かれ、対照的に近代文明の本質的な暴力性が描かれることは共通している。
 主人公が「抜ける」対象が、「悪の組織」ではなく、今現在自分が属している文明社会そのものであるという点が、この種の物語では特筆される。
 しかし考えてみれば前回記事で挙げた「デビルマン」「死霊狩り」等でも、主人公は最終的に人間社会自体の暴力性に気付き、そこから「抜ける」構図を持っていた。
 70年代日本サブカルの先見性も、同時に確認しておきたい。

     *     *     *
 
 そして、この十年ほどの間で一番ハマった「抜け忍モノ」ハリウッド映画といえば、やはりこちらになる。


●映画「バットマン ダークナイト三部作」クリストファー・ノーラン監督(05、08、12公開)
1「バットマン ビギンズ」
2「ダークナイト」
3「ダークナイト ライジング」

 実写版のアメコミヒーロー映画には多数のシリーズがある。
 私はその全てをチェックするほどのファンではないが、それでも好きなシリーズはある。
 サム・ライミ監督の「スパイダーマン三部作」や、とりわけこの「ダークナイト三部作」シリーズは大好きだった。

 アメコミヒーローを扱ったシリーズではあるけれども、対象年齢はかなり高めに設定されているようだ。
 たとえば先に挙げたサム・ライミ版「スパイダーマン」シリーズなら、親子連れでも十分に楽しめるだろうし、デートで観に行くのも十分ありだろう。
 しかしこの「ダークナイト」シリーズは、そうした「楽しい」鑑賞には全く向いていない。
 いかにもマンガ的な「バットマン」という素材を、手抜き無しで徹底的に「リアルなバイオレンスアクション」として成立させることを志向しており、ロマンスやセクシー要素すら排除されている。
――腕は超一流だが極めて愛想の悪い料理人
 そんな趣のあるシリーズで、いい年のおっさんが十分にハマれる内容なのだ。
 個人的に一つだけ難点を挙げると、それはやはりハリウッド映画にありがちな「ヘンテコ東洋」の描写になるだろう。
 第一作「ビギンズ」と第三作の完結編「ダークナイトライジング」は、そのヘンテコ東洋が物語の基本構造に組み込まれてしまっているので、そこでぎりぎり興が削がれてしまうところがある。
 ただ、第二作「ダークナイト」について言えば、ヘンテコ東洋の設定から一応切り離されており、シリーズ中でも突出した完成度になっている。
 中でも宿敵ジョーカー役のヒース・レジャーのブチ切れた狂気の演技は素晴らしい。
 映画の中のカリスマ的な悪役と言えば、すぐに「羊たちの沈黙」シリーズのレクター博士が思い出される。
 この作品のジョーカーはそれに迫る水準に達していると思うのだが、残念ながらヒース・レジャーは映画の完成を待たず、急死。
 この第二作単独でも鑑賞可能なので、未見の人はぜひ。 



 ダークナイト三部作の主人公ブルース・ウェインは、大富豪の一人息子。
 幼い頃に両親を犯罪者に殺され、「悪を倒し、恐怖に打ち勝つ力」を求めて放浪する。
 やがて狂信的なカルト集団と出会い、厳しい戦闘訓練を経た後、決裂。
 抜け忍として故郷に帰還し、財力に物を言わせた装備でゴッサム・シティ―に巣食う「悪」と戦う、「バットマン」に変身する。
 しかし、超法規で闘うバットマンは決して「正義」ではあり得ない。
 毒を持って毒を制する「闇の騎士」でしかなく、そのことを自分でも承知している。
 悪と戦うが、最終的には悪と戦う自分が消滅することを望んでいるのだ。
 シリーズを通じて常に圧倒的な敵役に翻弄され、防戦一方で、気持ちよくは勝利できない。
 戦闘力を高め、「悪」を退けようともがけばもがくほど、より強力な「悪」を呼び込んでしまう。
 幾多の戦いで満身創痍となり、幼馴染のヒロインは救えず、恋も実らない。
 とてつもなく苦い、挫折と絶望の物語である。
 第三作のラストで、富豪一族として代々守ってきた都市が再建され、後継者を得たことを確認した主人公は、「闇の騎士」であることからようやく解放される。
 遠く離れた地で、長い戦いの中で得たささやかな安息が描かれ、長尺のシリーズは幕を閉じる。
 バイオレンスアクションの大作であるけれども、大人が、一人静かに味わうための映画だと思う。

     *     *      *

 思い返してみると、成人後の私が何とか食い扶持をひねり出してこれたのは、中高生の頃に必死で身に付けた写実デッサンの技術とともに、皮肉なことに超スパルタ受験校で身に付けた受験勉強の技術のおかげであった。
 美術系の仕事と共に、家庭教師や塾講師などの受験指導ができる大小二本差しだったことが、私をサバイバルさせてくれた(苦笑)
 高校卒業後、学生時代から成人後も、私はずっと変わらず「抜け忍」であったのだ。
(続く)
posted by 九郎 at 17:53| Comment(0) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする
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