これはマンガというジャンルに限定されないが、60〜70年代サブカルを存分に享受してきた世代が80〜90年代以降「作り手」に育ち、新たな感性を加えてリバイバルする流れが出てきた。
この章で扱ってきた「抜け忍モノ」についても、一〜二回目の記事で紹介した作品の影響下で、多くの優れた作品が制作された。
いくつか、当時の私がとくに好きだった作品を紹介してみよう。
●「ムジナ」相原コージ(93〜97週刊ヤングサンデー連載)
90年代初頭、竹熊健太郎とのコンビで「サルでも描けるまんが教室」を描き上げた直後の連載作品である。
相原にとっても竹熊にとっても、執筆時の年齢、作品の質ともに「サルまん」が「完全燃焼」の作品だったであろうことは想像に難くない。
内容的にも「まんがを描くこと」自体をテーマにしたメタフィクションであり、時として創作者に勃発する「脳内ハルマゲドン」とでも呼ぶべき、あやうい作品だったはずだ。(改めて考えてみれば連載内連載「とんち番長」は、まさに「抜け忍モノ」そのものだった)
その「サルまん」後、おそらくペンペン草も生えない荒涼とした心象風景の中、相原が選んだテーマは、子供の頃から大好きだったという「忍者マンガ」だった。
全てを出し尽くした後は、一度「原点」に立ち返ることが必要だったのかもしれない。
(同時期、「サルまん」コンビの竹熊健太郎は、「私とハルマゲドン」という、これも自身の原点を振り返る本を執筆している)
白土三平タッチの筆致に実験的なギャグを週替わりで加味しながら、「サルまん」でバラバラに分解された「創作の破片」を、一つ二つと拾い集めるように連載は進む。
しかし、コツコツとページを重ねて世界観を構築しても、そこに現れるのは、どこにも逃げ場のない閉塞した忍者社会だ。
相原流のギャグに彩られてはいるものの、主人公の忍者少年ムジナは肉親を失い、友を失い、何重にも張り巡らされた謀略と裏切りに翻弄され、ストーリーは限りなく鬱展開にはまり込んでいく。
そんな先の見えないサバイバルを経て、ムジナは最後に持てる全ての技を駆使し、がんじがらめの忍者の世界を食い破る戦いに挑む。
それまで一貫して受け身の戦いであったムジナが、並みいる強力な敵を食い破る。
隠された能力を全開にして食い破る。
ただ生き残るためだけに必死だった自分の生き方をも、食い破る。
父に与えられた「愛する者を作るな」という生き方は、これまでムジナを生き残らせてきたが、ムジナをがんじがらめに縛る「呪い」でもあった。
その呪いを、同じ父に与えられた「技」で、愛する少女を守るために、食い破る。
そうした主人公の姿に、作者相原コージの感情移入がダブって見えてくる。
スタート地点のやや斜に構えたギャグの枠を食い破り、あの相原が、真正面から壮絶なバトルを描き切る。
連載を追いながら、その様を目のあたりにした私は、戦慄を覚えていた。
そして凄惨な戦いの果てに、ムジナは満身創痍になりながらも生き残り、守るべき少女と共に、完全に「抜け切った」のだ。
直球ど真ん中のカタルシスと感動が、そこには確かにあった。
* * *
もう一つ、同時期の作品の中から。
●「覚悟のススメ」山口貴由(94〜96週刊少年チャンピオン連載)
舞台は核戦争と環境汚染に荒廃した近未来。
主人公・葉隠覚悟は、旧日本軍で編み出された「零式防衛術」と、秘密兵器「強化外骨格・零」を伝承する少年。
第二次大戦中、凄惨な人体実験を繰り返し、強化外骨格の技術を作り上げた悪魔的軍人・葉隠四郎を曾祖父に持つ。
祖先の罪と「力」を背負いながら、力なきもののために専守防衛の戦いを続ける正統派抜け忍ヒーローである。
対する「悪のヒーロー」は、覚悟の実の兄・散(はらら)。
最強の強化外骨格「霞」に宿る、人体実験で惨殺された母子の怨念に導かれ、人間であることを捨てる。
そして地球を汚染し、他生物を殺し続ける人類を抹殺する「星義」を掲げ、現人鬼(あらひとおに)となる。
熱血少年とクールな美少年、努力型と天才型、直線的な力と曲線的な技、兄に憧れる弟と弟に立ちはだかる兄など、少年マンガ的な主人公とライバルの対比を贅沢にフル装備しながら、人類とその他の生物の存在意義を賭けた壮大な兄弟喧嘩が描かれている。
70〜80年代の抜け忍ヒーロー像を自在に引用、再構成しながら、90年代的な世紀末感覚、メカデザイン、エログロ描写を加え、さらに旧日本軍的アナクロセンスをトッピングした、ある意味「集大成」のような作品である。
この作品で特筆すべきは、宿命の兄弟喧嘩の「その先」まで描かれていることだ。
葉隠兄弟は戦いの果てに和解し、手を携えて、その「力」にして「呪い」である強化外骨格の開発者、葉隠四郎を倒す。
その後、怨霊から解放された兄・散は、本来の力を取り戻して地球再生の旅に出、弟・覚悟はあくまで力無きものを守るための戦いを継続する。
週刊連載マンガでここまで描き切り、また余計な引き延ばしに手を出さなかったのは、「美事」という他ないのである。
* * *
私は幼い頃から「抜け忍モノ」サブカルチャーに心惹かれ、成育の各過程でそれぞれに多大な影響を受けた作品に出会ってきた。
発端は、自分と周囲の子供たちの間に距離を感じていた原風景と、孤独なストーリー展開が同期したことだったのではないかと思う。
超スパルタ受験校で過ごした中高生の頃も、抜け忍ヒーローの姿に勇気づけられ、キツい生徒指導に耐えながらひたすら「技」を磨き、無事卒業できた時には「ついに抜けた!」と思った。
学生時代から成人後、「抜け忍」となった後も、その時の「技」でなんとか凌いできた。
抜け忍の物語、そしてその物語に心惹かれる心情というのは、どこか「呪い」の要素があると感じられる。
作中の抜け忍は、多くの場合、逃れられない宿命の中で、暴力的な「悪の力」を心身に刻印される。
そして自分の意志でその「悪の集団」から抜け、孤独な戦いの生き方を選ぶことになる。
60〜70年代の「抜け忍モノ」では、そうした戦いの呪縛の構図が十分に解除されないまま、物語が終息するケースが多かったのではないかと思う。
呪いはいずれ解かれなければならない。
90年代以降の「抜け忍モノ」は、そうした先行する物語の「語り残し」に対し、影響を受けた表現者たちが自分なりに回答する試みだったのではないだろうか。
先に紹介した「ムジナ」「覚悟のススメ」は、その好例であると感じる。
ムジナは、忍者であることからも抜け切って、伴侶を得たカムイである。
覚悟は、美樹を守りきり、闘いの果てに了と和解し、ともに理不尽な父神を倒したデビルマンである。
そして前回記事で紹介した映画「ダークナイトトリロジー」は、「呪い」に捕らわれた抜け忍が、最後に抜け忍であることからも抜け、幼い頃受けた「呪い」を自ら解除する物語であった。
呪いに巻き込まれたままではいけない。
守るべきものを持ち、呪いの力をもって呪いを断ち切れ。
サブカルチャー作品とは言え、そこに込められた寓意は大きいと思うのだ。
本章一回目で紹介した「カムイ伝第二部」でも、第一部の一揆で壮大に挫折したカムイ、正助、竜之進の三人は、様々な道のりの末、再会する。
カタルシスの中でなく、当たり前の日常の中で、なおしぶとく志を持続し、次代に伝える姿が、そこにある。
それぞれに呪縛が解かれ、さばさばとした表情が、今読み返すとなんとも味わい深い。
* * *
最後にもう一つ、作品紹介をしておきたい。
●「仮面ライダーSPIRITS」石ノ森章太郎/村枝賢一(01〜09月刊マガジンZ連載)
いわゆる「昭和ライダー」の続編として描かれた作品。
本章二回目の記事で紹介した山田ゴロ版の続編として読むことも可能だと思う。
全ての戦いが終わり、ライダー達が姿を消した世界。
第一作に登場したFBI捜査官・滝和也は、ライダーの後を引き継いで、一人のただの人間として孤独な戦いを続けていた。
ある時、過去の亡霊のような「怪人」集団の引き起こす事件と遭遇する。
巻き込まれた子供たちを救おうと「仮面ライダー」に成り代わって奮戦するが、空手とバイクの達人である滝の力も、人間の範疇を超えた敵には通用しない。
絶体絶命の危機。
そこに、風のようにかつての友、本郷猛が現れる。
「スマンな滝、遅くなった」
本物の仮面ライダーに、変身。
「敵は多いな、滝」
仮面ライダー1号がつぶやく。
「いや、大したことはないか
今夜はお前と俺で、ダブルライダーだからな」
この第一話、このシーンを読んだ時、私は既にいいおっさんになっていたのだが、不覚にも涙ぐんでしまったことを覚えている。
あれは、本当にいいシーンだった。
――「仮面ライダーSPIRITS」は、第一話が飛びぬけて良かった。
こんな感想が目に入ると作者は不本意かもしれないが、作品の最後の一筆は読者が加えるもの。
年食った「大きなお友達」が過剰反応するマンガを描く方が悪いのだ(笑)
このエピソードを読んでから数年後、熊野遍路の途中でふと思いついた。
(ああ、あれは同行二人の物語だったんだな……)
遍路でよく使われる言葉に「同行二人」というものがある。
これは「どうぎょうににん」と読み、金剛杖にも書かれている。
「遍路の道行きは、御大師様と二人連れ」
そんな意味がある。
弘法大師空海と二人連れということは、実際歩むのは自分ただ一人ということだ。
歩むも止まるも野垂れ死ぬも、たった一人。
一人の覚悟が決まってはじめて、「同行二人」は成立する。
心の仮面ライダー、心のカムイと、同行二人。
馬齢を重ねつつ、ぼちぼちその程度の覚悟は定まったと思うのだ。
(「抜け忍サブカルチャー」の章、了)