八月末である。
とっくに大人になっていても、なんとなく「夏休み」の意識は残っている。
子供の頃から学生時代にかけて、私の夏休みは時間をかけて絵を描いたり工作したりするのが通例だった。
今でも夏休み期間には、何かまとまった作品を手がけていないと心が落ち着かない。
この夏、完成できた作品の一つに、F20のアクリル画がある。
タイトルは「のきした」。
20年以上前、季節はちょうど今頃。
熊野遍路で通りかかった山村で、作物を吊下げた軒下の風景がふと目にとまり、写真を撮った。
なぜかずっと心に残っていて、絵に描きたいと思いながら時間だけが過ぎ、ようやくこの夏、作品化できた。
今手元に残っているのは上のL版アナログ写真一枚だけなので、もちろんそれだけでは絵にできない。
作物などはあらためて(なるべく実物を用意して)個別にスケッチしなおし、作品に臨んだ。
同じ頃、映画館の看板のペンキ絵のバイトをしていて、その頃の絵柄のイメージで一枚描き残しておきたかったということもある。
ほんのわずかに当時リスペクトしていた生ョ範義風美なところも見えるかも。。。
ここから更にもう一段階描き込んで、「写実」のレベルを上げることは可能なのだが、一旦「完成」という判断を下し、筆を置いた。
絵は本物っぽければいいというものでもない。
手間をかければそれだけ「保険」はかかる。
しかし、これだけ描き込んだのだからとか、これだけ本物っぽいのだからというのは、絵の良し悪しとは一応分けて考えた方が良い。
なるべく曇りのない目で絵と対し、他ではないその一枚の「ピーク」を見極めなければならない。
経験上、描き込み過ぎは良くないと思っている。
もう少し描きたい気分が残っているくらいで止めるのが、私にとっては良い場合が多い。
余白というか余韻というか、最後の一筆は心の中にとどめておく。
それは多分、作品を鑑賞する人に向けて送り出す意識とも、通じているはずだ。
いずれやろうと思っていたことを、なるべく一つずつ実行に移していく。
人生の残り時間を考えると、そうしなければならない年齢になってきたのだ(笑)
2018年08月31日
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