忘年会シーズンである。
百点満点には程遠いけれども、まんざら捨てたものでもなかったこれでの人生、全員参加の強制忘年会のある職場と今まで無縁だったのは、とくに幸運だったことの一つだ。
酒はまあ、嫌いではないけれども、飲みたくもない場で飲みたくもない人間と飲むのは、難行苦行に近いだろう。
若い頃は師匠によく飲みに連れていってもらったが、義理で付き合ったことは一度もない。
俺も師匠も泡盛好きで、むしろ俺が師匠の話を聴きたかったので、そこにハラスメントの要素は一切なかった。
数年前に亡くなってから、かえって師匠のことをよく思い出す。
俺の師匠が偉かったのは、人間としてはあくまで対等で、技や知識の面でだけ圧倒的であったこと。
技は、目の前でやって見せる。
知識は、日常会話の端々に溢れだす。
それで、たまたま俺の方がちょっとだけできることや知ってることがあると、「おお、なるほど!」と喜んですぐ取り入れる。
本物の実力と自信がないと、なかなかできることじゃない。
やっぱり師匠は偉かった。
師匠がこんな感じだったら、敬意はほっといても湧いてくる。
教わる方の目が確かなら、上下など関係必要ないのだ。
俺も年食ってあの頃の師匠に近くなったけど、あれは見習わんといかんなと、あらためて思う。
実力のないバカほどどうでもいいことでマウントを取りたがるし、我がニッポンのセンセーや上役の大半は、そういうバカで溢れているのだ。
自戒を込めて。
思い返せば、俺は中高と超スパルタ受験校で、当時ですら時代錯誤の軍隊式体罰指導を受け続け、心のどこかが酷く傷ついてしまっていたのだ。
師匠はそんな俺に、至極真っ当な師弟の在り方で接してくれた。
あまりこの言葉は好きではないが、それはやはり「癒し」であったと思う。
今でもついつい「スパルタ」と書いてしまうのだが、あれは正しくは「虐待」であった。
虐待は俺の魂の深部に刻まれ、多分一生消えることはない。
無意識のうちに「スパルタ」と書いてしまうのがその証。
心底恐るべきは虐待の連鎖だ。
どのように恫喝し、追い込めば、人は隷従するか。
そのノウハウを俺は刷り込まれてしまっているので、加害者になる危険性は十分ある。
だからこそ、つらいばかりでなくもちろん楽しいこともあり、自然豊かで牧歌的なバンカラ気風の魅力もあった我が母校のかつての指導方針を、ここはあえて「虐待であった」と言い切らねばならぬ。
負の連鎖を自分一代でなんとか断ち切るために。
師匠は俺に良心回路を組み込んで、虐待経験に上書きしてくれたが、残念ながらその効果は不完全だ。
心身の疲弊などの隙を突き、いつでも悪魔回路の方が起動する。
キカイダーの「ギルの笛」が鳴るようなものだ。
それをよく自覚しておくことだけが、加虐衝動を抑止する。
自分に刻まれた虐待を、なるべく冷静に分析する事で分かることは多い。
虐待は必ずしも身体的な暴力や感情的な暴言に限らない。
笑顔と善意と優しさに満ちた虐待というものもあり得る。
鞭と鎖の散在しない、「厚待遇の奴隷」が存在するのと同様である。
俺が中高生の頃受けた体罰指導は、教師にとっては善意であり、熱意であった。
今にして思えば歪んだ嗜虐も間違いなくあったと分かるのだが、当時の俺にはそこまで見えていなかった。
厳しい体罰指導と引き換えの進学実績により、善意の虐待体制の完成する。
これは昨今表面化している部活の体罰と全く同質で、「熱心な指導」という建前で、体罰(=虐待)や、長時間の練習、非科学的な食事の強制がまかり通る。
ほんの一握りの成功事例(それも指導の賜物であるかは疑わしい)のために、潰された児童生徒が山と積み上げられる。
そうした指導に馴らされた者が指導者に回り、虐待は連鎖する。
もちろん疑問を感じて連鎖を断ち切る者もいるが、自己否定を伴うのでかなり難しい。
俺が通っていた中堅私立受験校でも、純粋培養のOB教師が多くて、確実に虐待は連鎖していた。
当時ですら時代錯誤の校風には、そのような背景があった。
虐待は、肉体的にはもちろんのこと、精神的な被害も深刻だ。
本当に嫌な言葉だが「奴隷根性」というものはある。
恫喝で馴らされた者は主体性を喪失し、進んで隷従を求めるようになる。
嬉々として他人にも奴隷根性を強い、従わない者を憎悪するようになる。
長い受験勉強から解放された大学時代、カルトにハマる真面目で優秀な学生の事が度々話題になる。
俺の見聞きした範囲では、大学で急にカルト志向になったのではなく、そもそも幼少の頃から受けた指導がカルトじみていたケースが数多い。
一見「熱心な指導」の皮を被った虐待は、世に蔓延しているのだ。
日本では学校でも社会でも奴隷根性を強いられる場面が多々あるが、大学というのは例外的にそうした圧力が低い。
難関大学合格者の中には幼少の頃からの厳しい受験指導しか受けてこず、主体性が全く育成されないままに、いきなり「自由」に放り出され、途方に暮れるケースがある。
保護者も受験校教師も、生徒を難関大学に押し込みさえすれば自分の役目(善意の虐待)は終わったつもりで、「後は自由に楽しく生きよ」と放置する。
しかしそれは、お座敷犬をいきなりサバンナに放つのと同じ種類の、新たな虐待行為だ。
主体的に歩むことを成育歴の中で全く教えられなかったタイプの大学生は、いきなり与えられた自由と自己責任に戸惑い、強制を受けないことにむしろ物足りなさを感じ、かつて受けた「善意の虐待」と同じようなものを求めるようになる。
私の知る範囲でも、そのような流れでカルトに走った同窓生が何人かいた。
青春ハルマゲドン(後半)
表面上は「体罰」という肉体的な暴力を使っていなくとも、子供の自主性を奪い、奴隷根性を植え付ける指導法は色々ある。
宿題を大量に出す教師や塾講師、とにかく長時間の練習を課すコーチなどがそれにあたる。
保護者にとっては「極めて熱心な先生」に映るが、指導の実態は虐待だ。
むやみに大量の宿題や長時間の練習を課す指導者が多いのは、それが一番簡単に「熱心さ」を誇示できるからであって、生徒のためを思ってのことではない。
無能な指導者ほど、生徒の大切な生活時間を浪費させることに熱心だ。
それで結果が出ないと、自身の無能を棚に上げ、生徒の努力不足を責める。
すると素直な「いい子」は、以下のように自分を責める。
「先生はこんなに熱意をもって指導してくれているのに、自分の努力が足りないばかりに結果が出ず、そのことで先生を苦しめている」
この「先生」の部分を入れ替えれば、学校であれ部活であれ塾であれ、または宗教であれ企業であれ、どこでも虐待カルトは成立する。
もちろん国や軍隊でも同じだ。
最近Twitterで以下のような呟きを目にした。
「圧倒的努力は必ず報われます。報われないのはそれが圧倒的努力ではないからです」
指導者として無能な者の典型的な言い種であるが、これが言論機関たる出版社の経営者の発言であるのだから絶望的な気分になる。
何事かを為すには、個人の資質、適切なノウハウに沿った努力、そして何よりも運や巡り合わせが不可欠だ。
根性論だけが成功の鍵であるかのように言う者は、自分に都合の良い奴隷を欲しているのである。
この手の妄言は「善意の虐待大国」ニッポンに蔓延している。
虐待や酷い搾取の被害者側が、このような妄言を嬉々として持ち上げるサンプルとして、先の妄言に多数の賛同のコメントがぶら下がっている。
これも一種の「虐待の連鎖」である。
幼い頃から表面上は暴力に見えない「善意の虐待」に馴らされた若者は、「自分の頭で考え、意思決定する自由」を与えられると逆に戸惑い、再び善意の虐待へと回収されていく。
カルト的な受験指導を受けた優秀な大学生が、入学後の自由から逃げるようにカルト団体に入るのと同じ構図だ。
このような世相の中、個人にできることは限られるけれども、まずは自分の中の虐待の連鎖を断ち切ることから始めるべし。
それこそが、今は亡き師匠への、最良の供養になるだろう。
カテゴリ「夢」:本当のおわかれ
2018年12月25日
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