●「機動戦士Zガンダム 劇場版三部作」
元になったTV版を本放送で観たのが中学生の頃。
以後まとまった形で視聴したことはなかったので、ちゃんと大人になってから「ゼータ」を視たのは初めてかもしれない。
いい年こいて中二病をまだ引きずってたりするアホなおっさんなのだが、さすがにリアル中学生の頃よりは色々物事が分かるようになっていて、ストーリーやキャラクターについて「ああ、そういうことだったのか」とあらためて理解が追い付いたことも多かった。
一番印象に残ったのは、シャアのダメダメさ(笑)
これ、シャアの朴念仁が原因で、色々事態が悪化してたんですね。。。
子どもの頃はそんなん全然わからんかった!
劇場版ゼータ三部作は、1年分のTV シリーズを約五時間にダイジェストし、追加シーンとあわせて「新訳」したもの。
TV版の尺の三分の二以上は採用されなかったことになるので、当然あれこれ収録されなかったシーンに気付く。
中には「なぜこのシーンが入ってない?」と疑問の沸くTV 版の重要シーンも、いくつかある。
たとえばTV版の冒頭、主人公カミーユが、名前の響きから女と勘違いしたジェリドに、いきなり殴り掛かるシーンがカットされている。
このシーンはカミーユのややエキセントリックな性格設定が一発で伝わるとともに、物語最終盤まで続くジェリドとの因縁の発端で、普通ならカットするなど考えられないはずなのだが、バッサリ削られている。
この時点で、カミーユの印象がかなり変わってくる。
神経質な美少年のイメージが大幅に緩和されてくるのだ。
TV版の膨大な情報量から切り離し、劇場版三部作だけでゼータを鑑賞すると、カミーユは随分「しっかりした子」に見えてくる。
TV 版後半のロザミィとの悲劇的な関わりはまるごとカットされ、カツの「兄貴分」としてなにかと面倒見ているシーンが多く採用されており、「こんなに頑張っていたのか!」と強く印象付けられる。
家族関係や自分の容姿に複雑な思いを抱きながら、だからこそ問題を抱えた少年少女のために敵味方を問わずあちこち奔走する、健気な姿が浮かび上がってくる。
この構成ではTV 版のあの悲劇的なラストとは繋がらなくなるのは当然で、劇場版最大の「新訳」ポイント、TV版とは一見正反対のラストの方が、自然に感じられる。
賛否のあるラストの改変も、わりと素直に「カミーユとファ、よかったなあ」と思えてくるのだ。
しかーし!
こちとら古参の富野ファン、すぐに黒い妄想がむくむくと頭をもたげてくる(苦笑)
ラストのカミーユ、俺らの知るあのカミーユにしては、いくらなんでもまっすぐ過ぎないか?
あれは一見ハッピーエンドに見えるけれども、カミーユの「変調」の表現という見方もできるのではないか?
……思い過ごしであってほしい。
* * *
劇場版ゼータは、他にも興味深い「新訳ポイント」があった。
エマとヘンケンの関係もその一つ。
昔TVで視ていた時の記憶では、確かヘンケンはエマにアプローチするものの、実らぬ恋のまま二人とも散ったという受け止め方をしていた。
しかし劇場版を見返すと、追加されたカフェのシーンでエマの「女房気どり」みたいな微笑ましい描写があり、「あれ、いつの間に!」と少し救われた気分になった。
追加シーンと自分自身の加齢により、昔は全然わからなかったレコアの寝返りも、少し理解できた気がする。
あれは要するに、アーガマの少年少女に対して「勝手におまえらのおかんにすな!」という苛立ちもあったのではないか、とか。
シャアまで煮えきらず女扱いされていないとなると、愛想をつかすのも仕方がないか、とか。
他人に決して心を開かないシャアに、それでもゼータの時点で最も接近したのがレコアで、だからこそシャアの「見掛け倒し」に気付いてしまったのだろう。
カミーユやファ、エマといった若いクルーに対しては、「姉貴分」として寝返った後でも身を案じてはいて、だからといって自分の意志を曲げると言うことはないのがレコアという人だった。
ナチュラルに「おふくろさん」の役割を引き受けた例としてファーストのミライがいるが、それはあくまでそれぞれのキャラクターの違いで、「良い悪い」ではない。
ただ、ミライの立ち位置は続編の中では空席のままになった感があり、ファーストとそれ以後の、それが一番大きな違いかもしれないとは思った。
TV 版の最重要シーンでカットされているのは他にもあるが、中でも「シャアのダカール演説」が採用されなかったのは意外だった。
ジオン・ダイクンの遺児が初めて表舞台に立った瞬間であり、宇宙世紀の歴史教科書があるとしたら必ず載りそうな出来事が、あっさりカット。
これなども、「普通に考えれば」あり得ない編集である。
劇場版の限られた尺の中で、カミーユとシャアはかなりクローズアップされている印象なのだが、そのベクトルは正反対。
カミーユについては名誉回復、シャアは「見かけ倒しの朴念仁」の強調がされているようにも見える。
そしてこの「新訳」は、続く物語の「逆襲のシャア」への、非常に巧みな橋渡しに見えてくるのだ。
(続く)