カミーユとクワトロ大尉(シャア)の動向を軸に編集されていると見て間違いない。
舞台になった「グリプス戦役」におけるカミーユの活躍は鮮烈に描き出されているが、シャアが結局何をしたかったのかというと、謎が残る。
シャアの行動原理についてあらためて考えるため、一年戦争やそれ以前の時点に遡ってみよう。
シャアは幼い頃から、周囲の大人に特殊な思想を刷り込まれた「カルトの子」だった。
ジオンのカリスマ的指導者の長子として生まれ、父が暗殺された後は、権力争いに敗れた大人たちの一方的な情報で復讐心を植え付けられた。
シャアの女性に対する煮え切らなさを、その生い立ち、特に母親の悲惨な死に結びつけたのは、安彦オリジンが最初だったと記憶している。
安彦オリジンの功績は多岐に渡る。
ジオン・ダイクンの幻想を剥ぎ、少々神懸りな「只の人」であったとしたところは、世に及ぼす影響力を自覚した、ちゃんとした大人の仕事だった。
大人の女性に対しては朴念仁で一貫して見えるシャアが、年若い少女に対しては心を許すことについては、昔からあれこれ取沙汰されている(笑)
一つの解釈として、本当は自分がしっかり守るべきだった妹アルテイシアを、一人残してしまったことに対する罪悪感、代償行為であったのかもしれない。
誰に対しても心を開けない、常に緊張を強いられる人間関係の中、「年若い少女」は唯一の憩える領域だったのだろう。
ただ、当然ながら少女はいつまでも少女のままではない。
シャアの(とくに成熟した)女性に対する朴念仁ぶりは、幼い頃から美少年だったであろうことも関係しているかもしれない。
プライドが高いタイプだと、煩わしさから逃れるために、女性に対して鈍感なのが習い性になったりする。
このあたり、小説「幻魔大戦」の東丈と似ている感じもする。
ファーストガンダムはカルトの子・シャアが、段階的に洗脳状態を食い破って行く物語と読むこともできる。
ザビ家打倒を目的にジオン軍に潜入したシャアは、ターゲットに接近するほど、「敵を人間的には認めてしまう」という葛藤を抱える。
ザビ家の面々は、付き合ってみればそれぞれに魅力的な個性を持っていたことだろう。
友でもあったガルマを殺した時の心の痛みと後悔で、シャアは初めて「自分の親を殺したザビ」と「それ以外のザビ」の区別がついたのではないだろうか。
ドズルやキシリアに対しても、ある種の敬意や情はあったはずだが、この二人はあくまで「討つべきザビ」だった。
キシリアは、非常に限定的なものではあるけれども、シャアに対して母性を感じていた気配がある。
アニメでは終盤のほんの短い会話の中で「キャスバル坊や」と口にし、富野監督による小説版では、幼いキャスバルとアルテイシアに対して「こんな子たちだったら自分も持ってみたい」という回想があった。
ザビ家は「家風」である権力志向により、内輪で殺しあって、結局キシリアが生き残る。
そのキシリアが最後にシャアに撃たれたのは、はっきり「油断」だった。
実の兄ギレンを「意外と兄上も甘いようで」の一言で切り捨てたキシリアが、バズーカを担いだシャアを遠目に認めてすぐに回避行動をとらなかったのは、普通では考えられない失態である。
想定できる原因はそんなに多くないはずで、キシリアがシャアに対して抱く母性の片鱗が、一瞬の判断を甘くしてしまったということだろう。
キシリアを討った時点で、シャアの「カルトの子」として洗脳状態は一応解除される。
それはドラゴンと化した太母を退治し、子が自立する構図ともシンクロして見える。
ザビ家打倒という具体的で全力を尽くせる目的を失ったシャアには、「ジオン・ダイクンの理想」という空疎だけが残る。
ガンダムの物語はやはり、一年戦争の終結で一旦は完全に終わっている。
アムロは元々積極的に物語を引っ張るタイプではなく、「降りかかる火の粉は払う」だけの、リアクション型の主人公だった。
実質物語を牽引していた陰の主役・シャアも、これ以上闘う理由を喪失している。
一年戦争終結後のアムロとシャアをリアルに描くなら、「それぞれの自分探し」から始める以外にはありえないのだ。
実際「Ζ」での二人には、本格的な活躍前にグズグズともたついたまま、放映期間が過ぎてしまった感があった。
当時はなんとなくそれが不満だったが、今考えると「無理もない」と納得できる。
ファーストであれだけの密度の人物描写をやってしまった以上、続編で相応の動機付けもないままにシャアやアムロをドタバタ動かしてしまうことなど、できようはずもなかったのだ。
(続く)