2019年03月07日

川奈まり子「迷家奇譚」

 昨年末から川奈まり子の作品にハマり、読み進めている。
 当ブログでもこれまで二冊のレビュー記事を書いた。

 実話奇譚 奈落
 実話怪談 出没地帯

 そして今回手に取った三冊目は、以下の本。


●「迷家奇譚」川奈まり子(晶文社)

 決定的なネタバレにならぬよう配慮しつつ、各エピソードを紹介してみよう。

●第一章「追憶の遠野紀行」
 先に読んだ「出没地帯」は、著者が実話怪談を蒐集、執筆するきっかけとなった「分身」体験から語り起こされた。
 本書ではさらに遡り、思春期の著者のフィールドワーク体験から始まる。
 学者である父親と現地に足を踏み入れ、語りを聴きとり、文字に定着する。
 そうしたプロセスは、誰かに導いてもらわなければ独力ではたどり着き難い。
 その時理解出来なくても、体を一度通しておくことで、いつの日かふと甦る感覚というものが確かにあるのだ。
 昨年「奈落」で初めて川奈作品を開いた時、怪異体験を聴き取り、エピソードを綴る抑えた筆致に「現代の民俗学のようだ」という印象を持った。
 今回「追憶の遠野紀行」を読み、「ああ、そういうことだったのか」と腑に落ちた。
 遠野を連れ立って歩く、すこしぎこちない父娘の後ろ姿が浮かんでくるようなエピソード。

●「廃墟半島にて」
●「彼岸トンネル」
 廃墟、トンネル等は、いずれも近代的な巨大構造物。
 その圧倒的な質量は、関わった人々の記憶や欲望を膨大に溜め込むダムであるかのようだ。
 とくに80年代の物質的繁栄、欲望の記憶の坩堝に、ある種の敏感さを持った者が不用意に迷い込み、それにアクセスしてしまったら……
 90年代は、まだ万事アナログの時代だった。
 デジタルへの切り替えが急速に進んだのが2000年代初頭で、その頃一気に普及したデジカメは時代変化の象徴だったと思う。
 当時まず思ったのは、「心霊写真はもう無くなるんだろうか?」ということ。
 霊現象とデジタルはいかにも相性が悪そうに思えたものだったのだが、結果としては、近代の構造物も、現代のデジタル技術も、ネットの普及も、怪異を駆逐することはなかった。
 むしろ巨大なアンプとスピーカーとして機能し、その拡散を押し進めた感すらあるのだ。

●「熊取七人七日目七曲り」
 一口に「怪異」と言っても、確固とした現実から超常現象まで、グラデーションがある。
 第四章「熊取七人〜」は、起こった怪異自体はかなり現実的で、薬物による妄想、そして実際に手を下した人間のいる犯罪の匂いすら感じられる。
 しかしそこに、土地の歴史や呪的な数字の要素が被さることで、怪異の物語への変換が起こる。
 現代ではネットの伝達力もあり、物語化、神話化は昔よりずっと早く進行しているのではないだろうか。

●「鍵付きの時代箪笥」
●「いちまさん」
●「人形心中」
 思い入れの念の籠った器物、人形の物語たち。
 作りの精巧な人形には、やはり特別な感情が宿る。
 それはたぶん、人間側の濃い感情が「ひとがた」に反映されているものなのだが。
 特にサイズが数十センチから等身大になると、映し出される感情の質量は危険水域に達してくる。
 人形趣味も、小サイズである程度デフォルメされたフィギュアくらいにとどめておくのが程よいのかもしれない。

●「堀田坂今昔」
●「神隠し」
 日常の徒歩移動の際、ふと別の経路を辿ったり、そのまま行き先変更してしまいたくなる時がある。
 人によって、あまりそういう衝動に駆られないタイプもあろうけれども、概して「散歩好き」は、そのような小さなアクシデント、即興性を好む。
 川奈まり子の著作には、自身の散歩や、それにまつわる怪異のシーンがよく出てくる。
 先月「出没地帯」収録の「散在ガ池」「ブランコが揺れる」を読んだ時、ふと思った。
「もしかしたらこの人は、神隠しにあうタイプでは?」
 そんな直観が裏付けられた思いがしたエピソードである。
 衝動に駆られての散歩と神隠しは紙一重、無事帰って来られるかどうかの違いしかない。
 特に年少者の衝動には気を付けてあげなければ……

 そんなことを、自分の幼時の危うく小さな「冒険」の思い出と共に味読した。
 あの日幼い私は、祖父母宅の裏山へ決然と登って行ったのだった……

 山の向こうへ1
 山の向こうへ2
 山の向こうへ3
 山の向こうへ4

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●「犬の首」
●「禁をやぶると」
 70年代は、まだあちこちに(今の目で見ると怪しげな)土俗や、その担い手の人々が残っていたことを思い出す。
 日常と違う「変わったこと」「変わった人」に出会う機会が、今よりずっと多かった気がする。
 怖さと懐かしさが入り混じった感情をかき立てられるエピソード。
 現在、特に都市部では、かつてのような「怪しさ」を目にすることは少なくなった。
 しかしそれは表面上のこと。
 普通の見た目の普通の人の普通の生活の中に、怪異は偽装されて潜んでいるのかもしれない。
「まさかあの人が」
 この一言が日々のニュースに頻出する昨今である。

●「まれびとの顔」
●「海霊の人魚」
 若い頃バイトで入っていた環境設計の事務所が沖縄の仕事をしていた関係で、何度か現地調査に入り、旅行でも何度か行くようになった。
 旅人として物珍しげにあちこちのぞいて回るうち、「あ、そうか! ウチナーの皆さんも、こちらを見物してるのか!」と気付く瞬間がやってくる。
 よく引用されるニーチェの言葉「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」の「深淵」の箇所は様々に置き換えが出来る。
 果たして「まれびと」はどちらか?

●「蛭男」
 暗く湿気ていながら、どこか優しく包み込むような怪異のエピソード。

●「生霊返し」
 本書「迷家奇譚」中、私が最も恐ろしかったエピソードである。
 前半後半で怖さの質が変わる。
 前半は極めてリアルで凄惨なDVの怖さ、後半は現代に蘇った呪術のオカルティックな怖さである。
 どちらも恐ろしいのだが、私は読んでいて前半がより辛く怖かった。
 DVの描写を辛く感じるのは、私が中高生の頃、虐待まがいの指導を受けており、そして更に言うならその被虐経験から、一歩間違えれば自分も虐待をやってしまいかねない危うさを自覚しているからだ。

 年を忘れつ師を想う

 描かれているDV加害者(体験者の夫)も、成育歴の中で虐待指導を受けているのは間違いないと思う。
 虐待の多くは「善意の指導」として行われるものなのだ。
 それは古来の「呪い」と同様に機能し、人の心を縛り上げ、連鎖していく。
 後半のオカルティックな呪いの攻防は、むしろDV等の「現代の呪い」を収束させる方向に機能していると見ることもできる。
 不動尊にシンボライズされる「生霊返し」の呪力はいかにもおどろおどろしく映るけれども、命のやり取りまでエスカレートした毒念のぶつかり合いは、生半可なことでは浄化されない。
 外科手術で患部周辺まで切除するように、延焼を防ぐために火災現場の周囲を破壊するように、緊急事態にあって不動尊の呪力はばっさりと発揮される。
 それを執り行った術者も依頼主も、報いは覚悟の上のことだ。

 当ブログでは不動尊の祈祷の実例として、「公害企業主呪殺祈祷僧団」について記事にしたことがある。

 呪と怨1
 呪と怨2

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 不動尊を祈りの対象としたお経や祭文は様々にある。
 中にはかなりおどろおどろしいものも含まれる。
 当ブログで以前紹介したのは不動尊祈り経


【真言〜不動尊祈り経】(4分20秒/mp3ファイル/8MB)

 作中には「いざなぎ流」という名称もでてきた。
 以前読んだ関連書籍の中に、確か「いざなぎ流の太夫は死後『浄土の地獄』へ行く」という一節があったはずだ。
 断片的な情報ながら、感覚的に「あ、そういうことか!」と分かった気がして、ずんと心に堪えた記憶がある。

●「鬼婆の子守唄」
 このエピソードには、オカルト的な意味での怪異は存在しない。
 表面上は極めて常識的な人が、偶発的に条件が揃いすぎていたことにも後押しされ、静かに淡々と「鬼」に成り果てる怖さがある。
 いわば「凡庸な狂気」が、大量殺戮を生み出してしまう怖さ。
 これと似た怖さを、私はかつて「愛犬家連続殺人事件」の関根元に感じたことを思い出す。

 この世の地獄のノンフィクション

 凡庸な俗人も、条件さえ揃えばこの世に地獄を作ることができる。
 あなたも私も、例外ではない。

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 以上、「迷家奇譚」読了。
 川奈作品の中でも、とくに好きな一冊になった。
posted by 九郎 at 21:00| Comment(0) | 怪異 | 更新情報をチェックする
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