当時は高度経済成長の終盤で、いわゆる「新三種の神器」であるカラーテレビ・クーラー・自家用車の広まりと共に、地方の生活道路にアスファルト舗装がいきわたりつつある年代だった。
急速に現代文明化されると同時に、まだ昔ながらの民俗・土俗が十分残されていた時代である。
古い記憶を探ってみる。
幼い頃の思い込みや記憶違い、あるいは何らかの理由で改変された記憶があるかもしれないが、なんとなく今の自分の元になったのではないかと思える、いくつかの原風景がある。
父方の祖父は浄土真宗の僧侶だった。
祖父母宅は寺ではなかったが、法事のおりの集会所を兼ねていて「おみど」(漢字で書くと「御御堂」か?)と呼ばれる広い座敷があった。
むしろ「おみど」が主で、居住スペースが従であったかもしれない。
父方の祖父母宅は城下町の外れにあり、その周辺は昔の町屋風の、間口が狭く奥に長く伸びた建物がいくらか残っていた。
表門を入ると正面に「おみど」の入り口がある。
障子を開けて入ると、畳敷きの広い座敷があり、奥には一段上がって仏具が並べられた祭壇があった。
ちょうど劇場の舞台と客席の構成に似ていて、「舞台ソデ」にあたる板敷きを抜けると、そこが「楽屋」である居住スペースになっていた。
子供の頃、盆暮れに祖父母宅に里帰りした時は、私達家族はこの「おみど」に寝泊りし、朝夕には「おつとめ」として勤行が行われた。
祭壇にはいくつもの燭台やお灯明を模した豆電球があって、勤行の際にはそれらが点灯された。
真っ暗闇だった祭壇スペースが、蝋燭や豆球のオレンジ色の弱い光に照らし出される。
金色の仏壇仏具がキラキラと輝いて、様々な形態がぼうっと浮び上がる。
一部、絵図なども描かれていたはずだ。
私はその中の燭台の一種が気になって仕方がなかった。
耳の尖った亀の上に鶴が乗っていて、その鶴が蝋燭の台を咥えている燭台である。
他の仏具も子供にとっては不可解な形の物ばかりだったが、この燭台のことはとくに印象に残っている。
蝋燭の灯りは、通常の天井からの蛍光灯の照明とは全く異なる。
物を横又は下から照らし、ゆらゆら揺れる弱い光。
物の影は暗く長く、しかも生き物のように揺れ動く。
非日常の照明。
仏具の金色は怪しく輝き、もうすぐ始まる勤行の声を待っている……
お灯明の準備が整い、一同が集まると勤行が始まる。
大人たちは勤行用の冊子を開き、子供たちはオールひらがなの折本を各々開き、真宗開祖・親鸞作の讃歌「正信偈」を唱和する。
哀調を帯びたメロディがついている。
民族音楽として聴くと、アジア的な音階が心地よい。
続いてこちらも親鸞作の「念仏和讃」を唱和する。
こちらは一応和語なので、子供心にもなんとなく意味がとれる所がある。
本文の横には節回しを表現した棒線がついていて、はじめての人でも唱和している内に唱え方がマスター出来るようになっている。
念仏「南無阿弥陀仏」の部分は、「なむあみだぶつ」ではなく「な〜もあ〜みだぁあんぶ〜」という感じになる。
子供のことなので、決して喜んで参加していた訳ではなかったが、縁者一同で声を合わせて唱和するのは、それはそれで楽しかった。
浄土真宗の勤行はかなり昔からカセットテープ販売されていたし、近年ではもちろんCD化されている。
今、私の手元には京都の本願寺売店でゲットしてきた声明のCDがあるが、そのジャケットには「読誦の練習に便利 頭出しを多く設定しました」と表記してある。
いまやお経の読み方もデジタルで練習するのが普通なのだ。
私が子供の頃、祖父の後を受けて父が得度した時にも、よくテープを聴いて練習していた。子供心に、お経を録音したものが売られていること自体に驚愕した覚えがある。
テープやレコードというのは、普通の音楽を聴くものだとばかり思っていたからだ。
もちろん浄土真宗の歴史の中では、このように録音されたものが練習のお手本になった期間はごく短い。
はるかに長い何百年もの期間は、当然ながら師から弟子へ、親から子へと、脈々と口承される以外に伝達方法は無かったはずだ。
そこにはおそらく様々な唱え方の「流派」というか、「地方色」のようなものがあったのではないかと想像してしまう。
例えば我が家の場合、祖父のお経の唱え方に少々独特のものがあったことが判明し、父の代になってから唱え方が修正されたことがあった。
便利な時代なので、本山で管理している「正解」と比較対照されやすかったために起った出来事だ。
これが録音技術や五線譜の無い、移動の不便な昔の時代であれば、祖父のお経の読み方は代々そのまま受け継がれて行った事だろう。
新しい技術によって「正解」が記録され、お坊さんの練習も便利になった反面、おそらく日本中に数限りなく存在したであろう「唱え方のバリエーション」が、消えて行ってしまっている可能性はある。
時代の流れかもしれないが、ちょっともったいない気もする。
念仏和讃のゆったりと哀調を帯びたメロディは、子供だった私の魂の底に刻まれた。
今でもふとした瞬間に、幼い頃から徐々に作り上げられた和讃のイメージが蘇ってくる。
暗い闇夜の海を、のたうつ波に揉まれながら小さな舟が漂っているイメージ……
このイメージがどこから出てきたのか、記憶は定かでは無い。
親鸞は表現として「海」の喩えをよく使っているのでそこから来たのかもしれないし、「補陀洛渡海船」のことをどこかで聞きかじったせいかもしれない。
あるいは単純に、ゆったりしたメロディが「波」っぽかったというだけかもしれない。
私が浄土真宗の勤行に親しみを感じるのには、「子供の頃から唱えてきたから」という以上の理由はないだろう。
それが「御題目」であれ「君が代」であれ、「インターナショナル」であったとしても、同じように幼い頃耳にしていれば親しみを感じたはずだ。
自分の記憶の底に根ざした懐かしいメロディを大切にしつつも、割と機械的な刷り込みで感情が生まれてくる人間の習性の部分も忘れずにいたい。
無所属で自分なりに色々な神仏のことを調べてみて、そう思う。
(続く)