2019年05月16日

70年代、記憶の底3

 幼児の頃の私は、昼間は主に母方の祖父母の家で過ごしていた。
 祖父母宅は、古墳のような小山と小川の流れに挟まれた小さな村にあった。
 小山の麓には道が三本、上中下段に並行しており、何か所かで縦にもつながっていた。
 一番上段の水平移動道の片端、山に向かって右手に祖父母宅があり、反対側の左端には「観音さん」の御堂があった。
 御堂から石段をおりると公園があり、山手に登ると村の墓場があった。
 小山の麓を流れている小川には欄干のない小さな橋が架かっていて、渡ってしばらく田んぼ道を歩くと二車線のバス道があった。
 それを更に超えるとまた川沿いの土手があって、保育園、幼稚園への通園に使っていたのはその土手の上の道だった。
 そうしたごく狭い範囲が、幼い頃の私の世界だった。
 小さな世界ではあったけれども、祖父母宅周辺は十分に田舎で、草むらや虫たちなど、幼児の遊びのネタが尽きることは無かった。

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 祖父母は子沢山で、私の母は六人兄弟姉妹の長女だった。
 祖父宅は子供の成長とともに増改築が繰り返されていた。
 なにせ祖父とその息子二人(私の母の弟たち)が大工であったから、かなり頻繁に家は改造されていったらしい。
 このあたりは、大工の家の特殊事情だろう。
 私の母など、家具は「買うもの」ではなく「頼んでおけばしばらくすると出来上がってくるもの」だと思っていたそうだ。
 他人の注文を請けた「お仕事」としての増改築でなく、あくまで自宅改造の気楽さである。
 長女の長子(つまり初孫)である私が生まれる頃には、祖父宅はかなり複雑怪奇な造りになっていた。
 もともと敷地が小山のふもとの斜面地だったせいか、各部屋で床の高さが違っており、構造が分かりにくかった。
 母の妹のカレシ(後の私の叔父)は「はじめて来た時は忍者屋敷かと思った」そうだ。
 私の家族は別の家に住んでいたが、私が小学校に入ると身内で「子供部屋」を増築してくれた。
 ここでも身内的なお気楽増築が行われ、窓のある壁面にそのまま子供部屋を接続し、結果として居間と子供部屋が「窓でつながっている」という状態になった。
 もちろん子供部屋の入り口ドアは別に存在したのだが、居間から一旦縁側に迂回しなければ到達できないため、私はもっぱら窓から子供部屋へ出入りしていた。
 居間側には丸椅子、子供部屋側には二段ベッドを配置して、楽に上り下りできるようにした。

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 このような原風景を抱えているせいか、今でも地方の旅館などで、無理な増改築をしてフクザツなことになってしまっている建物に入ると、妙な懐かしさを感じてしまうのだ(笑)

 観音堂の石段を降りたところにある公園では、毎年盆踊りが行われていた。
 祖父母の家を出発して暗い夜道を抜け、夜の公園を訪れてみると、昼間の様子とはまったく違う、子供にとっては「異世界」が現れていた。
 高く組まれた櫓を中心に提灯が明るく揺れて、浴衣の人々が太鼓の音に合わせて踊っている。
 子供の私は陶然としながらその風景を眺めている。
 そして踊りの輪の内側に、小さな子供達の一段が楽しげに駆け回っているのをみつけ、たまらなくなって自分もその中に加わる。
 中に一人、少し年齢の高い踊り上手な子がいて、私の目にはとてもカッコよく映った。
 見知らぬその「お兄ちゃん」のあとを追い、手振りを真似ながら時を忘れて踊り、巡った……
 毎年の盆踊りの時、輪の中に小さな子供たちが混じって楽しそうにしているのを見ると、色々な記憶が巡ってくる。

 もう一つ、淡い記憶。
 ある夏の宵の時間帯、同じ観音堂へ続く道を、幼児の私が幾人かの友だちと連れ立って歩いている。
 屋台みたいな所で蝋燭をもらい、それを持って小さな祠にお参りすると、駄菓子がもらえてとても嬉しかった。
 あれは地蔵盆だったのだろうか。
 汗ばんだ浴衣の感触と、蝋燭の香りが今も肉体感覚として残っている。

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posted by 九郎 at 23:57| Comment(0) | 青春ハルマゲドン | 更新情報をチェックする
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