2019年05月18日

70年代、記憶の底5

 幼い頃の記憶には、ときに奇怪なイメージが紛れ込んでいる。

 幼児の私は、毎晩寝るのが怖くてしかたがなかった。
 顔を横にして枕に耳を埋め、目を閉じると、ザッザッザッという音が規則正しく聞こえてくる。
 今から考えると、おそらく耳のあたりの脈拍が、枕のソバガラで増幅された音だったと思う。
 しかしそれは、幼児の私にとっては、不可解で無気味きわまりない音に聞こえた。
 暗い寝床でその音に耳を澄ませていると、頭の中で奇怪な空想が湧き起こってくる。
 薄暗い山道、白い布をかけられた棺桶を担いで進む、数人の黒い影。
 棺桶を運ぶその足音が、耳元で響くザッザッザッという音と重なっていつまでも続き、怖くて眠れなくなる。
 私はかなり長い間、その奇怪な空想に怯えていた。
 枕に耳をつけて眠ると、そのまま自分も棺桶に入れられて山奥に運ばれてしまい、二度と目が覚めなくなるような気がした。

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 何がきっかけでそんな突飛な空想を始めたのか記憶は定かではないが、「もしかしたら」と思い当たることもある。
 空想の中のイメージと直接重なる経験では無いのだが、母方の曾祖母の思い出がそれだ。
 私が幼い頃にはまだ母方の曾祖母、ひいおばあちゃんが存命で、祖父母宅から斜面を下った家の奥の方の一室で、96才まで寝起きしていた。
 私の出生時には「わたしが抱いたら長生きするで」と言って抱っこしてくれたそうだ。
 幼児の私が家内を探検し、たまたま奥の部屋に入っていくと、ニィと笑いながら駄菓子をくれたりしたのを覚えている。
 やがてそのひいおばあちゃんの容態が悪くなった。
 私は小さかったので病床には連れて行かれなかったが、孫達(つまり私の母や叔父叔母)は、様子を見てきては悲しげに話し合っていた。
「おばあちゃん顔が黄色ぉなって……」
「言葉もファファ何を言うとるかわからんように……」
 傍らでそんな会話を聞いている私の頭の中では、好き勝手な空想が繰り広げられている。
 想像の中で、ひいおばあちゃんの顔の「黄色」は「金色」に置き換えられ、白い布団の中に金色のひいおばあちゃんが横たわり、だんだん言葉も通じなくなる情景が浮んでくる。
 大人達の言う「仏様になる」という言葉は、そういう意味なのかと一人で勝手に納得していた。
 当時、私達幼児は仏壇のことを「まんまんちゃん」と呼んでいたのだが、「まんまんちゃん」の金箔や、仏像・仏画の金色から連想したのかもしれない。

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 私の記憶は唐突に葬儀のシーンに切り替わる。
 家の周りには大勢の黒い服を着た大人達が集まっている。
 拡声器で何かガァガァ言っている声が聞こえてくる。
 亡くなったひいおばあちゃんの曾孫、私と弟と従兄弟の三人には、それぞれ色紙で飾り付けられたカサ、ミノ、ツエが持たされている。
 従兄弟はツエをつきながら、ふざけて老人の真似をしている。私もカサを被って見せながら「ツエの方が面白そうやな」などと考えている……

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 このあたりになると現実と空想の境目がかなり怪しくなってくる。
 何しろ田舎で、わりと近年まで土葬が残っていた土地のことである。
 幼児にカサ、ミノ、ツエを持たせるような、何らかの葬送の風習があったのかもしれないが、定かではない。
 ただ単に幼児らしい思い込みで、他の行事の記憶が混入していたり、空想や夢を現実の記憶として捉えているだけなのかもしれない。
 今からでも親類に確かめてみれば、あるいは真相が判明するのかもしれないが、なんとなく曖昧なままにしておきたい気分がある。
 おそらく現実か空想かということよりも「このように記憶している」ということが私にとって重要なのだ。
 夢か現かウソかマコトか分からないけれども、このような「記憶の底」を抱えていることが、今の人格の元になっていると感じる。
posted by 九郎 at 21:58| Comment(0) | 青春ハルマゲドン | 更新情報をチェックする
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