寝る前の空想、妄想は他にもある。
寝床から見上げる天井には、電灯が吊り下げられている。
70年代のことなので、灯籠を模した外枠の中に円型の蛍光灯が二段重ねになっており、夜間はぼんやりオレンジの豆球だけが点されていた。
幼児の私は光の無い円型蛍光灯に重なって、バチバチと細かな火花が弾けているような幻を見ていた。
火花はやがて勢いを失い、豆球のオレンジに集まって、ボタッと落ちてくるだろう。
もし落ちてきたら、もう何もかもお終しまいになってしまうのだ。
私は絶望的な気分になりながら、身動きできずにじっと上を見つめている……
これなども、今から考えると線香花火が燃え尽きる情景あたりから連想していたのではないかとも思うのだが、我がことながらはっきり断言はできない。
幼児期を過ぎ、就学年齢に入った私は、枕に耳をつける恐怖や、蛍光灯を見上げる恐怖を徐々に忘れ、今度は奇妙な空想で入眠するようになった。
夜になって蛍光灯を消し、布団に入り、目を閉じると、そこから毎晩のようにその空想は始まる。
掛け布団と敷布団の間に自分の体が横たわっている。
体と布団の隙間は、頭部から足元へとまるで深い洞窟のように続いている。
枕元に立った「小さな自分」が、自分の頭部をすり抜けて「布団の洞窟」へと分け入る。
小さな自分は、一歩、また一歩と洞窟の中を進んでいく。
奥へ入り込んで行くにつれ、「横たわる自分」は眠りに落ちていき、遂には夢の世界へ入り込んでいく……
迷い込んだ小さな自分が、その先がどうなってしまうのか、いつも見届けることが出来ないままに、私は眠りに落ちていた。
だからだろうか「洞窟」や「トンネル」というイメージは、私の心の奥底ではいつも怖さと憧れが入り混じった特殊なものになった。
大人になった現在の私が、やや閉所恐怖症気味ながら、各地の「胎内潜り」に心惹かれてさまよってしまうのは、どうやらこのような奇妙な影響もあるのかもしれない。
このように、私の遠い記憶の底には、夢とも現実とも判然としない、奇怪なイメージがいくつも残留している。
睡眠時の夢についても、幼児期からずっと興味があり、自分なりにこだわりを持って探究してきた。
奇妙なことだが、私はごく幼少の頃から、夢について誰に教わるともなく、かなり自覚的に探究し、採集してきた。
夢にまつわる最古層の記憶の一つに、保育園に通園するバスの中の情景がある。
保護者に連れられて路線バスに乗っているとき、突然「ずっと前にこの場面を見た」と、はっきり感じた。
当時の私はまだ幼児なので、「既視感」という語彙は無い。
幼い私は、その生まれて初めてのデジャヴ体験と同時に、自分が数カ月に一度、いくつかの同じ夢を繰り返し見ていることに気付いた。
そして前回記事で紹介したような入眠時の幻想と相まって、「眠り」や「夢」について、強い興味を抱くようになった。
以来、ずっと夢についての考察を緩やかに続けている。
緩やかに、と但し書きをつけているのは、夢について深刻に思いつめたり、何か物凄く価値のある探究をしていると勘違いすることなく、という意味だ。
読書したり散歩したりという行為と同様、日常的な趣味、楽しみとして、私は夢と関わり続けてきた。
なんとなく、あまり他人に話すようなことではないとわかっていたので、一人ひっそりと考え続けていた。
繰り返し見ていた夢の中で、記憶する限り最古のものが、こんな夢だ。
「塊」
体育館のような板張りの広間。
屋内は薄暗いが、外の光が差し込んでいて、逆光の中にたくさんの人影が浮かんでいる。
幼児の私は「ああ、この場面は何度も見た」と思っている。
周囲の人々は、大人も子供も楽しげに運動したり遊んだりしている。
私は何か大きな塊を押している。
運動会の大玉転がしのように、「それ」を一人で転がしている。
塊は黒くてゴツゴツしており、金属のようだ。
無数にひび割れが走るその塊を転がしながら、私は「それ」が何か非常に危険なものであることを悟る。
毒物のような、爆発物のようなもので、とにかくこのまま転がし続けると大変なことになってしまうとわかっている。
周りの人はその危険に全く気付いていない。
幼児の私は恐ろしさに震えながら、それでも止めることができずに塊を転がし続けている。
塊はだんだん大きくなってくる。
この夢はかなり長期にわたって見ていた。
数か月に一度ほどの頻度だったが、幼児の頃から小学校高学年くらいまでは見ていたと思う。
かなりの悪夢なので印象深く、「ああ、またあの夢を見た」と記憶に刻み込まれていた。
この夢に関連していると思われるのが、小学生の頃に見た夢だ。
「毒ガス毛布」
恐ろしいことになった。
広い道路には人間がばたばたと倒れて死んでいる。
死体以外に見当たらず、停まっている車の中でも人が死んでいる。
毒ガスのせいだとわかる。
このままでは私も危ないが、子供の私は非難所から出てきたばかりなので毛布一枚しか羽織っていない。
再び毒ガスが出てくれば防ぐ手立てはない。
不意に、体に巻きつけた毛布から、黄色い気体が噴き出してくる。
非難所で配給され、安全だとばかり思い込んでいた毛布が、化学反応を起こして毒ガスを噴き出したのだ。
絶望的な気分で毛布を捨て、その場から逃げる。
この分では人工合成物は何一つ信用できない。
しかし合成物はどこにでもあるので、逃げる場所は残されていない。
無駄だと思いながらも、走るしかない。
今度こそ死ぬな、と思っている。
私が記憶している中でも、一番恐ろしかった悪夢の一つである。
夜半に目覚めた小学生の私は、それが夢だとわかっていても、恐怖にがたがた震え続けていた。
当時は70年代の終盤で、小学校の教科書でも公害の惨禍が取り上げられ、子供向けのTV番組では「文明の暴走」をテーマにした作品が毎日のように放映されていた。
そんな世相が子供の無意識の領域にも反映されていたのかもしれない。
それから時は流れた90年代、カルト教団の起こした毒ガステロや、化学物質過敏症を扱ったニュースを見るとき、私はいつもこの夢のことを思い出していた。
2010年代の今もよく思い出す。
2019年05月19日
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