私が弱視であることが判明したのは三歳の頃。
おそらく生まれつきの低視力だったはずだ。
記憶の中に、母親が異常に気付いた時の情景が残っている。
* * *
自宅の居間である。
私は一人、背もたれにカエルの顔のついた幼児用のイスに座り、低めのタンスの上のテレビを見上げている。
番組は「仮面ライダー」か何かだったのではないかと思う。
家事をしていた母が、ふとテレビを見上げる私の視線に違和感を持つ。
顔を斜めにして見ていることに気付いたのだ。
その時、何らかの会話があったと思うのだが、内容までは覚えていない。
* * *
事実関係として正確かどうかはわからない。
全く別のシーンが混入しているかもしれないが、ともかく私の記憶の中では「そういううこと」になっている。
その後、眼科を受診した結果、低視力の遠視で、右眼が左眼の半分程度しか視えていないことがわかった。
比較的視えている左ばかり使う癖が出来ていたのだ。
さっそく眼鏡を作ることになった。
眼鏡をかけ始めた頃、食事時に私が言ったセリフを、母親から何度も聞かされた。
「ごはんのつぶつぶが見えるわ!」
それまで視えていなかったのだ。
子供の弱視は、数としてはけっこう多いという。
生まれつきそれが常態の幼児にとっては、「あまり視えていない」ということ自体が認識できない。
なるべく発達の初期段階で発見し、治療を行うのが望ましいが、全く視えていないわけではないので、年齢が低いほど周囲に気付かれにくい傾向がある。
時代と共に幼児向けの検査方法が発達し、認識も広まってはいるが、見過ごされるケースもまだまだ多い。
私の場合、幸運は二つあった。
一つは、親が早い段階で気付いて眼科に連れて行ってくれたこと。
目の前の茶碗のごはんつぶが視えないくらいの弱視でも、眼鏡をかければそれが視える。
この「実際に視える」という体験が、発達の初期段階であるほど視力回復を促すのだ。
そしてもう一つの幸運は、視力矯正の良い先生に巡り合えたことだ。
三歳で眼鏡をかけることになった私は、訓練のため頻繁に眼科に通うことになった。
長じてはあまり医者にかからなくなったので、これまでの人生で受診回数をカウントすると、眼科がダントツで多いだろう。
幼児のことなので、検査する方も大変だったと思う。
何しろ左右の区別もあやうい年齢である。
視力検査票の輪っかマークの欠けている方向は、一々手に持ったマークで再現させなければならない。
今は幼児向けの検査方法も進歩して、あの欠けた輪っかマークをドーナツに見立て、周囲に動物などのキャラクターを配して「ドーナツたべたのだあれ?」という質問形式になっているようだ。
しかし、四十年以上前にはまだそんな工夫はなかった。
小さい子の集中力はそんなに長く続かないので、うまくおだてながら進めなければならないのは、今も昔も変わらない。
大人になった今の私は、幼児向けのお絵かき指導の機会があるたびに、小さい頃対応してくれた眼科の先生方のことを思い出すのだ。
検査と訓練の過程で、幼い私はある「技」を習得していった。
視力検査表を、実際に見えている以上に読み取ることができるようになったのだ。
度重なる検査に飽き飽きしていた幼い私は、さっさと段取りを終わらせたいという思いや、少しでも現状を楽しもうという思い、「いい結果が出ると周りの大人たちが喜ぶ」という観察から、鮮明には見えていない検査表のマークを推測で読み取る技術を、なんの悪気もなく密かに磨き続けていた。
具体的には、鮮明に見えているマークを焦点をぼかすことによって「ぼんやりとしたシルエット」に変換し、その印象と比較検討することによって小さくて見えにくいマークを読み取り、また検査表全体のマークの配置具合などからも総合的に判断する、というものである。
言葉で説明するとものすごく難しそうに感じるかもしれないが、幼い子供はこのような「ゲーム」には驚くべき能力を発揮することがあるものだ。
視力検査というのはあくまで「視力の実態」を知るためのものだというような大人の常識は、幼児には通用しない。
当時の私にとっての視力検査は、完全に「高得点を上げるためのゲーム」と化しており、頭を高速回転させながら、実際より少しずつカサ上げされた検査結果を生み出していたのではないだろうか。
幼い頃身につけたこの「技」は、けっこう習い性になってしまっている。
数年前、久々の視力検査を受けたとき、無意識のうちに「技」を使ってしまっている自分に気づき、内心で苦笑した。
(あかんあかん! ゲームと違うんやから普通にせなあかんがな!)
以後は普通に見えるものは見えるといい、見えないものは見えないと答えた。
受診時の検査は眼科の皆さんの手練でなんとかクリアできるとして、日常的な矯正訓練にはもう少し「本人が積極的にとりくむ」要素が必要になる。
とくに幼児の場合は「楽しさ」が無いとなかなか続かない。
私の場合、どうやらこの子はお絵かきが好きらしいということで、そうした要素が取り入れられた。
今でも覚えているのは、塗り絵などの線画にトレシングペーパーをかぶせ、上からなぞっていくというもの。
今考えると、お手本の上に半紙をかぶせてお経や仏画を書き写す「写経」「写仏」の稽古そのものだ(笑)
がんばって描くとほめてもらえるのがうれしくて、この訓練はわりと好きだった。
単なる「なぞり書き」と侮るなかれ、あらゆる表現はモノマネから始まる。
お手本をトレスして完成された線を体感するのは、絶好のスタートダッシュになるのだ。
幼児の頃の「得意」は、要するに「自分で好きでやっている」回数とイコールだ。
私は四才から保育園に通っていたが、同年代の中では(実際大した差はないのだが)「絵がじょうず」ということになり、その体験が、はるかに時が流れた現在につながっている。
卵と鶏のように因果関係は微妙だが、弱視であったことが「絵描き」の私を作ったということもできるのだ。
左右の視力にアンバランスがあり、とくに右目の訓練が必要だったので、視える方の左眼に「アイパッチ」を貼ることを勧められた。
しかしさすがに幼児にとってはストレスが大きく、嫌がってあまり貼らなかったと記憶している。
このアイパッチによる矯正訓練は今でも行われているようだ。
子供向けの絵画指導をしていると、たまに片目に貼っている子を担当する機会がある。
(無理のない程度にがんばれ!)
そんな風に心の中でエールを送っている。
視力矯正が始まった幼児の頃から、母親はよく駅前市場で鶏の肝焼きを買ってくるようになった。
これを食べると目にいいからと勧められるうちに、あの香ばしくほろ苦い味が好きになった。
肝が目に良いというのは民間療法で昔から言われてきたことだと思う。
数年前、雑賀衆に関する本を色々漁っている時、神坂次郎の小説の中に「雑賀衆が夜目遠目を効かせるために、地元の魚の肝を食べている」という描写を見つけたことがある。
「へ〜、やっぱり肝って眼にいいのか?」と、昔を思い出したものだ。
ビタミン類の補給などで、それなりに科学的根拠はあるのだろう。
当時、眼鏡をかけている子は非常に少なかった。
通っていた保育園、幼稚園では他に見かけなかったし、もっと同級生の増えた小学校でも、入学当初は学年に何人もいなかったと記憶している。
今のようにスマホは無かったが、TVもマンガもゲームも、視力を消耗するホビーは既に人気で、さらに学年が進んで学習時間が増えるとともに、徐々に近視で眼鏡をかける子は増えていったが、幼児の頃から弱視が原因で眼鏡をかける子は、今よりもっと少なかったはずだ。
これは「時代と共に弱視の子が増えている」というより、検査法の発達により、早期発見のケースが増えたためではないかと思う。
全ての年齢層で眼鏡をかけている人が増え、日常生活の中で接する機会が多くなると、眼鏡は「数ある個性の中の一つ」としいう認識が定着する。
今はもう、大人も子供も眼鏡をかけているからと言って特別視されることは少ないだろう。
しかし私が幼い頃は、まだ認識がそこまで至っておらず、大人にも子供にも珍しがられることが多かった。
もっとはっきり書くと、好奇の目で見られ、バカにされることがけっこうあった。
就学前の段階では、好奇の目はさほどでもなかった。
保育園や幼稚園の子供同士では、「見慣れない容姿」を素朴に珍しがることはあっても、それが侮蔑につながることは少ない。
むしろ、大人の好奇に満ちた視線に違和感を持っていた記憶がある。
小学生になってからは、眼鏡をかけていることを理由にバカにされるケースが出てきた。
眼鏡がなぜ侮蔑の対象になるのか、改めて考えると不思議だが、今ならわりと冷静に分析できる。
さほど深い理由などなく、マンガなどの眼鏡キャラの類型を勝手に当てはめ、「がり勉」とか「運動音痴」とかのイメージを重ねることがきっかけになったのではないかと思う。
とくに「メガネザル」と呼ばれるのが悔しかった。
ずっと長くその名詞を耳にすると構えてしまうところがあったが、ある時期から「それはメガネザルに対して失礼だ」と気付き、こだわりは解消された。
ただ、「バカにされる」と言っても単発で、継続的、集団的ないじめに発展することが無かったのは幸運だった。
それもせいぜい3〜4年くらいまでのことで、5〜6年になって眼鏡をかける人数が増えてくると、反比例するようにからかいの対象になることは減っていった。
結局私は、幼児の頃から中学にかけて、ずっと眼鏡をかけていた。
訓練の甲斐もあって徐々に視力は回復し、中二ぐらいで眼鏡をはずした。
左右の視力のアンバランスは残しつつも、高校生の頃には裸眼で右1.5、左2.0ほどになり、むしろ眼はよく見える方になった。
高校以降の知り合いは、私に対して「眼鏡をかけている」というイメージは持っていないだろう。
元は遠視だったこともあり、老眼になるのは早いだろうと、ずっと言われてきた。
実際四十を過ぎたあたりから、そろそろ老眼鏡の世話になり始めている。
これから私は、ゆっくり「視えない」という原風景に還っていくのだろう。
別に何かを失うわけではない。
元いた所へ戻るだけだ。
色々あったが、今はもう、幼い頃眼鏡をかけていたことが原因で色々言われたことについて、痛みも怒りもほとんど感じない。
無知無理解がそれをさせたのだということで、一応受け止められている。
むしろ、子供の頃からマイノリティの気持ちを理解し得る立場にありながら、自分自身がやらかしてしまった差別の数々に、心の痛みを感じる。
やってしまった当時は悪気が無く、それが差別であると思いもしなかった行為の数々が、どれだけ残酷であったかということに、ずっとあとになってから気付き、愕然としている。
気付かないだけで他にもまだまだやってしまっているのだろうと思うと、後悔に身悶えしたくなる。
そんなことが度々ある。
なんのことはない、私も「やっている側」だったと気付いた時、幼少時の痛みの大半は消えた。
差別やいじめは、人間の原始的な感情の領域に根差しているので、そうした衝動が心の中に生じること自体は止め難い。
それを実際の発言や行動に移す前に自省、自制することは可能なはずで、なにより大切なのは知識、正しい認識だ。
眼鏡をかけた児童が、以前ほど好奇の目で見られなくなったように、様々な差異が少しずつ「当り前の風景」の中に入っていけるよう、まずは知ることだ。
今後の人生でも、私は無知無理解から繰り返しやらかしてしまうだろうけれども、それを減らす努力はしなければならない。
記憶の奥底に今も確かに存在する弱視児童の自分に対し、せめて恥ずかしくないふるまいを。
2019年05月22日
この記事へのコメント
コメントを書く