2019年07月01日

70年代サブカル前史「60年代の怪と異」

 1950年代から60年代半ばにかけて、活動の最初のピークをむかえていた「マンガの神様」手塚治虫。
 とくに63〜66年、国内初のTVアニメ「鉄腕アトム」放映期間は、絶頂期にあったと言って良い。
 ほぼ同時期のTVアニメ「鉄人28号」「エイトマン」は、競合作であると共に、「SF・ロボット」というジャンルを盛り上げる同志的作品でもあった。
 真の意味で子供向けTV番組の王座から手塚治虫を追い落としたのは、同じロボットアニメではなく、特撮による「怪獣」であったのではないだろうか。

【60〜70年代映画ゴジラシリーズ】
 怪獣の始祖にして王者である「ゴジラ」は、マンガ版「鉄腕アトム」連載開始から二年後の54年に映画第一作、翌55年には第二作「ゴジラの逆襲」が公開され、一世を風靡した。
 映画のゴジラシリーズが復活したのは62年の第三作「キングコング対ゴジラ」からで、64年の第四作「モスラ対ゴジラ」以降、75年の第十五作「メカゴジラの逆襲」まで毎年映画が公開された。
 60年代以降は、ゴジラと他の怪獣の対決を描くバトル路線の導入で人気が安定したのである。
 TVでも折々で放映された一連のゴジラ映画や、その他にも多数制作された怪獣映画により、「怪獣」は子供向けエンタメの定番の一つとして、がっちり定着したのである。
 
【60年代初期ウルトラシリーズ】
 そしてゴジラが切り開いた「怪獣」「特撮」というジャンルをより深く子供たちの心に食い込ませたのが、TVで毎週放映の30分番組としての「ウルトラシリーズ」だった。
 現在に続くウルトラシリーズの原点になった60年代の初期作は、円谷プロ制作の以下の三作品。
●「ウルトラQ」(66年1月〜7月、全28話)
●「ウルトラマン」(66年7月〜翌4月、全39話)
●「ウルトラセブン」(67年10月〜翌9月、全49話)
 第一作「ウルトラQ」では「毎週30分の特TV撮番組」という高いハードルが克服され、「鉄腕アトム」で実現された「毎週30分のTVアニメ」と並ぶ子供向けエンタメジャンルの柱となった。
 同時期にTVアニメ制作の渦中にあった手塚治虫は「毎週違うゴジラが出る特撮TV番組」が準備中という噂を聞きつけ、脅威を感じたという。
 実際、この初期ウルトラシリーズの人気沸騰が「アトム」を過去の作品にしてしまった面はあるだろう。
 第二作から登場したヒーロー「ウルトラマン」の存在も極めて大きい。
 それまで巨大怪獣の脅威を前に右往左往するしかなかった人類に、強力な味方が現れたのだ。
 東洋の仏像を思わせる「光の巨人」としてのヒーローデザインも素晴らしく、子供の持つ変身ヒーローへの憧れを巧みにすくい取り、敵味方の分かりやすいシンプルなバトルの構図が完成した。
 以後「怪獣退治する巨大変身ヒーローの特撮番組」という形式は定番化し、幾多の作品、シリーズが生み出されていくことになる。

 近未来SFの描く科学文明の光の反作用のように、そしてお茶の間に毎週襲来する巨大モンスターが呼び水となったように、高度経済成長に打ち捨てられた土俗の暗闇から蘇ってくる「怪異」もあった。
 妖怪である。

【水木しげるの妖怪ブーム】
 水木しげる(本名:武良茂)は1922年生まれ。
 幼少期を鳥取県境港で過ごし、43年には帝国陸軍に召集、ラバウルに出征した際、左腕を失う。
 46年、24歳で幅員し、美術を学びながらも職を転々とする。
 1950年頃から神戸でアパート経営の傍ら紙芝居制作を開始、51年には「水木しげる」のペンネームで紙芝居作家としての活動を始める。
 その後、急速なTVの普及と共に衰退した紙芝居に見切りをつけ、マンガ家への転身を目指し、57年に35歳で上京。
 雑誌マンガに圧され、こちらも斜陽の貸本漫画の世界で貧窮しながらも、60年代前半には「墓場鬼太郎」「河童の三平」「悪魔くん」等、後の代表作となる作品の数々を執筆。
 幼少の頃からの怪異体験や、戦地ラバウルでの現地人たちとの交流が、浮上の契機を作っていく。
 そして苦節後の65年、43歳にして講談社「別冊少年マガジン」でメジャーデビューし、看板雑誌「週刊少年マガジン」にて『墓場の鬼太郎』連載開始。
 翌年には水木プロダクション設立され、「悪魔くん」のTVドラマ化。
 68年、「墓場の鬼太郎」から改題した「ゲゲゲの鬼太郎」がテレビアニメ化、妖怪ブームを巻き起こし、古の精霊たちが大挙して戦後日本に復活した。

 アトム、怪獣、妖怪、それぞれに、本来の構図としては「文明批評」というメインテーマが含まれていたのだが、人気が定着するにあたって最も機能したのは「バトル要素の導入」であった。
 子供、とくに男の子向けのエンタメにおいて、バトルは極めて強い訴求力を持つのだ。
 バトル路線以外で人気が取れるとすれば、それはやはり「笑い」になってくる。
 60〜70年代の代表的な児童ギャグマンガ家の軌跡を見ておこう。

【赤塚不二夫のギャグマンガ】
 赤塚不二夫は1935年、満州生まれ。
 敗戦により大陸から引き揚げ、困難な暮らしの中で幼少の頃からマンガを描き続けた。
 中学卒業後は働きながら「漫画少年」に投稿を続け、18歳で上京した後、56年頃から貸本漫画家としての活動を開始。
 当時は少女漫画を執筆していた。
 メジャー誌で活躍し始めた62年、「おそ松くん」(週刊少年サンデー)、「ひみつのアッコちゃん」(りぼん)で一躍人気マンガ家になる。
 66年「おそ松くん」TVアニメ化、67年「天才バカボン」」(週刊少年マガジン)「もーれつア太郎」(週刊少年サンデー)連載開始、69年「ひみつのアッコちゃん」「もーれつア太郎」TVアニメ化、71年「天才バカボン」TVアニメ化と切れ目なくヒットが続き。ギャグマンガ家としての人気が不動になる。
 初期には日常生活の中に侵入してくる異形のキャラクター達の面白さ、魅力で人気を集め、70年代には次第にそうした「生活ギャグ」から離陸し、スラップスティック、シュールの領域へ踏み込んでいく。

【藤子不二雄】
 ペンネーム「藤子不二雄」は、藤本弘(1933生)と安孫子素雄(1934生)のコンビ名でもある。
 二人は富山県高岡市出身、小学校時代からの同級生だった。
 子供の頃からマンガを通して友人関係を築き、高校時代からは合作で作品を執筆するようになる。
 54年、二人で上京してからは、主に手塚治虫の影響下にあるシリアスな作品を制作し続ける。
 64年連載開始の「オバケのQ太郎」(週刊少年サンデー〜66年)が大ヒットした後は、ギャグマンガ家として広く人気を博すようになる。
 この「オバQ」で創案された、平凡な主人公の少年の家庭に「異物」としてのキャラクターが居候し、騒動と笑いを巻き起こすスタイルは藤子不二雄マンガの定番となり、数多くの作品が描かれた。
 その中にはデビュー以来の本来の持ち味であるSF的なアイデアを存分に盛り込んだ「モジャ公」(69〜70)がある。
 ユーモアを基調としながら、恐怖もあり、哲学的命題も含まれ、単行本ラストエピソードでは「終末」「カルト教祖」も扱われた傑作であったが、ハードなSFに振れ過ぎたせいかヒットとはならなかった。
 その直後に連載開始された「ドラえもん」(70〜)では、SFセンスと大衆性は巧みにバランスされ、「オバQ」を超える代表作へと成長していくことになる。

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 手塚治虫が切り開いた戦後児童マンガ、TVエンタメの世界は、60年代後半には手塚治虫によって誘引された多数の優れた才能により「世代交代」が起こった。
 そして、児童マンガで育った世代が青年期を迎える頃には、その受け皿になる対象年齢高めの作品が求められるようになって行った。
 60年代後半から加速する「劇画」の隆盛も、その顕れ方の一つだった。
posted by 九郎 at 23:59| Comment(0) | 青春ハルマゲドン | 更新情報をチェックする
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