70年代後半の子供は、まだまだ外遊びが多かった。
様々な理由が考えられるが、やはり「ゲームがない」という要素が大きいはずだ。
コンピューターゲーム自体は存在したが、遊べるのは喫茶店など、子供には敷居の高い場所に限られており、TVにつなぐゲーム機もまだまだ数が少なかった。
初の小型携帯電子ゲーム「ゲームウォッチ」の発売が80年からで、子供の世界にゲームが進出してきたのはそれ以降、そして子供の家遊びが本格化したのは83年のファミコン発売以降ではないかと思う。
もっと根本的な要素としては、団塊ジュニア世代が就学年齢に達しつつあったことだろう。
やたらに子供が多く、家から出れば必ず誰か遊べる相手がいたのだ。
近所にもいたし、公園や駄菓子屋に行けば打率百パーセントだったので、学校から帰ったら「とりあえず外に出ようか」と言うことになった。
おやつを食べるのも外だし、なんならマンガやプラモも外だった。
駄菓子屋で安いプラモとかビッグワンガムとかを買って、そのまま公園で組み立てたりしていた。
都心部以外では、まだまだ身近に子供が遊べる自然が残っていたということもある。
同時代の人気マンガ「おれは鉄兵」「釣りキチ三平」の自然描写、冒険描写に、感情移入できる環境があったのだ。
当時私が住んでいた地域は都市部と郡部の中間ぐらいで、住宅地と田んぼがモザイク状になっていた。
ため池がたくさんあり、フナ、コイ、ライギョ、カエル、ザリガニ、水棲昆虫など、子供が好む淡水生物は一通りいた。
そこにブラックバスやブルーギルが無断放流され、釣りが一気に流行した時期だった。
ただ、バスやギルはまだそんなに数はいなくて、ルアー釣りが子供には難しかったこともあり、実際はそんなに楽しめなかった。
当時の私は釣りの上手い友達がいて、そいつはルアー釣りをちょっとバカにしていた。
低学年の頃から同じ組だったその「達人」によると、「ルアーは金がかかるわりに釣れないから、面白くない」という意見だった。
私は同じクラスのその「達人」に、釣りを一から教わった。
いきつけの駄菓子屋には釣り道具も置いてあって、竹竿と仕掛けで確か300円ぐらいからあった。
達人は100円の仕掛けセットを買い、竿には適当な木の枝を使い、エサはメリケン粉を水で練ったものを使用していたので、私もそれにならった。
達人に連れて行かれたのは、ため池から田んぼへ水を引くための幅2mほどの農業用水路で、さほどきれいな水ではなかったが、小鮒の魚影がたくさん見えた。
達人は私に糸の結び方や仕掛けのつけ方、小鮒のよくいそうな場所を伝授してくれた。
釣り糸を垂らすと、暗い水中にメリケン粉のエサが白くぼんやり浮かぶ。
達人は私に、エサをつつく黒い魚影とウキの動きをよく見比べろと教えた。
何度か様子見でつついた後、小鮒は一気にエサを吸い込むので、それに「アワセ」ろと教えた。
完全に飲み込んでからでは針が外しにくいし、無駄に殺してしまうことになると教えた。
ここでコツをつかめば、直接見えなくてもウキの動きだけで水中の様子が分かるようになると教えた。
用水路の小鮒釣りで基本を学んだ私は、確かに少しばかり釣りの腕が上がった。
それから達人と一緒にため池に繰り出し、流行りのルアーで一向に釣れない子供たちを尻目に、安物の仕掛けと木の枝で、フナを釣りまくった。
コイがかかった時にはさすがに木の枝が折れてバラしてしまい、リベンジを誓った私たちはお年玉などをためて釣具屋で竿やリールを購入。
その後、コイやライギョなど、「ご近所の大物」にトライするようになったのだった。
達人は釣りの他にも、凧作りの名人でもあった。
ゴミ袋と竹ひご、タコ糸、セロテープさえあれば、高価なゲイラカイトよりよほど飛ぶ凧が作れるのだ(笑)
流行りのゲイラカイトで苦戦する子供たちを尻目に、例によって達人はありあわせの材料で作った凧を、その場の気象条件に合わせて調整し、グングン飛ばして見せていた。
まさに「弘法筆を選ばず」という言葉を体現したような子供だったのだ。
もちろん私はその凧の作り方を教えてもらった。
当時の達人の「金をかけなくても手持ちのもので凄い成果を上げる」という姿がめちゃくちゃカッコよく見え、私は今でもどこか、そういうカッコよさを追い求めているところがあるのだ。
2020年07月11日
この記事へのコメント
コメントを書く