超能力やUFO、UMA、そしてプロレスや格闘技等のジャンルに比して、心霊現象を取り扱うオカルト番組は、宗教とも領域が重なるので「危うさ」が漂う。
72年からワイドショーの一コーナーでスタートした「あなたの知らない世界」は、視聴者の恐怖体験を再現ドラマで紹介するが人気で、これも夏休みになると連日放映されていた。
わざわざ夏休みにまとめて放映するのは、完全に子供ウケをねらってのことだったのだろう。
その頃の心霊番組で今でもよく覚えているのは、ある「除霊」の映像。
再現ドラマではなく、実録の体裁で撮影されたものだった。
年配の女性に「蛇の霊が憑いている」という触れ込みで、祭壇を前にしたお坊さん(?)が経文を唱えると、その女性が苦しみだす。
両手を身体の前でつぼみのような形に合わせ、くねらせながら呻いている姿を、「経文の力で蛇の霊が苦しんでいる」と解説されていた。
私は瞬間的に「あれっ? おかしいやん!」と違和感を持った。
何分子供なのでさほど論理立てて判断できたわけではないが、今言葉を補って当時の違和感を表現すると、以下のようになる。
もし女性に本当に蛇の霊が取り憑いて苦しんでいるなら、頭は頭として床に寝転がり、蛇のようにのたうつならまだわかる。
わざわざ手で蛇の頭の形を作ってくねらせるのは、おかしいのではないか?
これは演技をしているか、または女性本人が「蛇の霊に憑かれていると本気で思い込んでいる」かの、どちらかではないか?
完全なフィクションではないにしても、心の中だけで起こっている「事実」があり得る?
そんな印象を持ったのだ。
この時の強い印象はずっと残っていて、私の「霊」に対する受け止め方に後々まで影響した。
とくに熱心な信仰を持っていなくとも、日本人はぼんやりとした「あの世」のイメージは持っている。
最近はそうでもないが、以前はアニメ「サザエさん」にも、たまにあの世のイメージが描かれることがあった。
波平と同じ顔をした「ご先祖さま」が、墓石や床の間にポワンと姿を現すシーンを記憶している人は多いのではないだろうか。
あの雰囲気が日本人の思い描く「あの世」の、一つの典型を示しているのかもしれない。
もう少しイメージスケッチを続けてみよう。
亡くなった人の魂は、消滅することなく死出の旅路に入り、あの世へ行く。
行きっぱなしではなく、盆と正月には家に帰ってくるし、それ以外の時でも仏壇やお墓を通し、なんとなく通信可能だ。
あの世がどこにあるのか、誰もはっきりとは知らない。
山里ならお山の向こう、海辺なら海の彼方、あるいは墓場の下の地下の世界など、自分の思い入れの深い故郷の自然の「向こう」にあるらしいと、なんとなく受け止められている。
あの世はさほどこの世と変わらないが、やや苦労が少なく、お花に包まれた美しい所だ。
地獄や極楽はもちろんお話としては知っているが、自分や身内の死後、あまり「大層な」世界に行くとは考えにくい。
よほどの悪人や飛び抜けた善人でない限り、大多数の人は死後「ほどほどに善いところ」に行き、のんびり暮らす。
ただ、生前の行状により、「あの世」に至れるまでの期間には個人差が出る。
行いの良くなかった者や、弔ってもらえない者、この世に執着を残した者などは、道に迷って到着に時間がかかる。
とくに悪業が深かったり、恨みを残した悲惨な境遇の死者は、容易に死出の旅に出ず、この世に留まって災いを為すこともある。
しかし長いスパンで見ればあらゆる死者はあの世に至り、いずれまたこの世に、たいていは子孫の誰かとして生まれ変わる……
おおよそこんな感じの死生観を「なんとなく」描いている人は現代でも数多いだろう。
似たような死生観は、世界中のアニミズム信仰で見られるので、日本人は仏教などの外来宗教を受け入れながらも、わりと古層の信仰を保ってきたのかもしれない。
実話とフィクションの狭間を行き来しながら、それでも上質のエンタメとして成立しているオカルトマンガの嚆矢が、70年代半ば、ほぼ同時に週刊連載された、つのだじろうの代表作二作だ。
●「うしろの百太郎」73〜76年、週刊少年マガジン
●「恐怖新聞」73〜76年、週刊少年チャンピオン
私が内容を理解できる年齢に達した80年前後の時点でも、本屋の棚には現役で並んでいて、子どもたちを恐怖のどん底に叩き落し続けていた。
主人公に強力な守護霊がついている「うしろの百太郎」の方は、いくら怖くても安心感があった。
一方「恐怖新聞」は、主人公が「ポルターガイスト」に憑依され、最後まで除霊できないままに終わる救いのない展開で、本当に怖かった。
先の分類では「2」にあたり、あくまでフィクションではあるけれども、作品に盛り込まれたオカルト情報・知識自体は出典のある「実録」テイストで、作品にリアリティを持たせていた。
このあたりの虚実の匙加減、リアルな描写は、同作者の直近のヒット作である「空手バカ一代」で体得したものかもしれない。
実録を交え、リアルさを売りにしたフィクションには、常に「読者が真に受ける」というリスクが付きまとう。
ましてや子供向けマンガのヒット作であり、作者のつのだじろうは霊や超能力が「実在する」というスタンスで描いている。
当時もそれなりに批判はあったはずだが、今読み返してみると、非常に「節度」の感じられる描写になっていると思う。
ブームだった「コックリさん」など、遊び半分で霊を扱うことや、金儲け目的のインチキ宗教に対してはかなり批判的に解説している。
善悪の基準はオーソドックスな倫理で貫かれていて、決して逸脱することはない。
ある意味「真っ当」な少年マンガなのだ。
この世の出来事全てが科学で解明できるわけではない以上、オカルトというジャンルの需要が尽きることはないし、一定割合でハマる人はハマる。
筋の悪いものに最初に出会うのは良くないので、その点つのだ作品は、私が子供時代に出会った「オカルト」としては、非常にバランスのとれたフィクションだったと思う。
70年代は、近世を通じて共有されてきた素朴な死生観に生じた揺らぎが顕在化した時期ではないだろうか。
TVやマンガ等の「心霊サブカル」で描かれる悪霊、地縛霊、水子霊等は、もちろんそれ以前から存在した概念であっただろうけれども、そのままではなかった。
罪のない多数の死者が出てしまった第二次世界大戦、戦後の高度経済成長のダークサイドである公害の惨禍など、旧来の倫理観では吸収しきれない「巨大な理不尽」は、決壊寸前まで蓄積されていた。
ニュータウンに代表される近代以前の習俗から切り離された人工的な共同体の在り方は、死や怨念をうまく受け止めるには、まだまだ未完成だったことだろう。
メディア主導、そして団塊ジュニア需要に牽引されたサブカルの中で、旧来の死生観が非常に通俗的な形で読み替えられて行った可能性は考えておきたい。
2020年07月24日
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