著者が年齢的に近い「少し上」の世代であるためか、読むたびに我がことを静かに省みる契機になるのだ。
今回紹介するのは今年2月末刊行の一冊だが、一度読了してから「これは彼岸花の季節にぜひもう一度再読したい」と感じた。
秋の早いこの9月、お彼岸を待たずに彼岸花が開花し始めたのに気付き、再び文庫本を手に取った。
例によってなるべくネタバレにならないよう、配慮しつつ紹介してみたい。
●「東京をんな語り」川奈まり子 (角川ホラー文庫)
■第一章「さまよう女」
本書は白い彼岸花の怪しく切ないイメージと共に、著者の二人の近親の、悲しく儚い物語から書き起こされる。
近親の物語はこれまでの著作にも断片的に記述されていたと記憶しているが、この度は強い決意のようなものが仄見え、胸をつかれた。
あくまで「作品」であるので虚実の匙加減は想像するしかないけれども、著者の強い思いは間違いようもなく伝わってくる。
物語は一旦そこから離れるのだが、また必ず戻ってくることを予感させつつ、大きく周回する。
身の回りで年少者が亡くなると、とても悲しく理不尽な思いがするのと同時に、どこかリアリティがなくて受け入れがたい。
その後も「長く会っていないだけ」のような気がして、たまに最後に見た姿のまま脳裏に甦ってきて、「そう言えばもう亡くなっていたのだ」と愕然とすることがある。
敏い子だった。
手のかからない子だった。
親の立場でも、教室等で子供を見ている立場でもそうだが、「手がかからない子」にはかえって注意が必要だ。
深く静かに、一人で何かを抱え込んでいる場合がある。
忙しさに紛れて気が付いてあげられないことがあったのではないか?
もっと話す機会があったのではないか?
いつまでもそんな風に面影を追ってしまい、とくにお彼岸の季節、強い風の吹く夕刻などには、思い出されて泣けてくる。
そんな自分の経験も呼び起こされる導入部だった。
物語の大きな周回は、現地調査を踏まえた様々な「をんな」への感情移入によって行われる。
今風に「聖地巡礼」といおうか、当該人物ゆかりの地や事件の現場を踏むことは大切だ。
文字なら何万字も費やさなければならない情報が、一瞬で体にストンと入って来ることも多々ある。
本書では著者自身の体験、現代の女性の聞き取りから、近世の実在の人物の伝まで、新旧様々な女性にシンクロし、地の文と混然となった一人称で語る構成になっている。
その構造が「口寄せ」を聞くような、スリリングな雰囲気を醸し出している。
一人称で文を綴ることは「演じる」のと似ており、「演じる」ことは霊降ろしとほぼ同義なのだ。
シンクロする女性が時代的に新しいほど、まだ鎮まりきらない荒ぶる怖さが漂っているようにも感じる。
一概には言えないが、「時の流れ」「人に語られることの蓄積」は、鎮魂の大きな要素ではないだろうか。
【下谷の家族】
現実の悲嘆が夢の並行世界を生み、やがて現実と重なりあってくる物語。
夢見の習慣を持っている者には、「十分ありえる」というリアリティと、切ない怖さが感じられるはずだ。
夢はいつかは覚めるもので、美しくても終わらない夢は、最後には悪夢になってしまう。
ましてやそれが、現実にまで流出、浸食してくるとすれば。
話者のかたの夢の終わりが、何らかの形の「解放」であれば良いなと感じた。
作中のように半ば物質化する例は少ないだろうけれども、夢の中で別の人生が並行しているケースは珍しくない。
私の場合はもう長年、虐待指導を受けていた中高生の頃の悪夢の呪縛があった。
暴力教師が荒れ狂う教室に引き戻されてしまう夢で、年齢とともに頻度は落ちてきたが、何十年も断続的に見続けていたのだ。
同じ学校の卒業生に同様のケースを語る者は多いのだが、私については昨年ようやく「決着」の夢を見て、以後は解放され見なくなった。
■第二章「やみゆく女」
近現代のアウトローの世界にも踏み込むエピソードの数々を読みながら、例によってわがことをふり返る。
犯罪に手を染めたり、巻き込まれたり、病んでしまうかどうかは紙一重で、「運不運」「偶然」「めぐりあわせ」の要素が半分以上を占める。
無縁の自由と危険は背中合わせで、どこまで離れても血縁は追い縋る、等々。
そして様々な縁や、とりわけ「折々思い切る妻」に引っ張られ、支えられて、二人の子を持ちなんとか無事に暮らしている今の自分の幸運等。
【八王子の家】
ここでは、導入部として絵師月岡芳年に触れてある。
芳年がいわゆる「神経」であったというのははじめて知った。
かの絵師ほどの技量があっても御せない幻想もあるのかと、あらためて戦慄する。
それでも絵描きは絵にしがみつくしかないし、地獄で筆をとるものなのだ。
そして大きく周回していた物語は、この章の最後で再び最初のモチーフに戻ってくる。
幼児の目を通して召喚された怪異が、終章へむけての導入部にもなっていく。
最初のモチーフの著者と近親者の間柄が、ここでの著者と甥の間柄と近似するのも興味深い。
親族の間柄は時の流れとともに相似形が繰り返されやすく、子供が大人になり、また子供と対するとき、あらためて感じたり分かったりすることも多いのだ。
私は身近な幼児や子供たちが、不思議な話や夢の話をしてきた時、まずは否定せずに聞いてあげることにしている。
「この人は聞いてくれる」というちょっとした積み重ねは、素朴な信頼感につながるのではないかと思うのだ。
絵描きにはそういう役割もあって良い。
子供の頃の私にはそういう人がいなかったので、自給自足でやってきた。
■第三章「いきぬく女」
実在の「明治三大毒婦」の一人、花井お梅の生涯について、尺を割いて触れてある。
美しくも愚かで、魅力的だけれども身近にいればたいそう難儀であろうこの女性に感情移入してみると、善悪美醜を超えて「いきぬくこと」自体の価値が見えてくる気がする。
生きづらさを抱える者が「芸」と「術」の世界に吹きだまり、身を寄せ合う様は、今も昔も変わらない。
余談になるが「お梅」という名の昔の本名表記が「ムメ」になっているケースをよく目にする。
表記上の「ム」は、発音の「ン」の代用に使われることが多かった。
もしかしたら当時の「梅」の発音は、「うめ」というより「んめ」に近かったのかもしれない。
【明治座】
東京大空襲の記録にまつわる怪異。
東京に限らず、日本の多くの都市には「この世の地獄と化した過去」があり、ふとしたきっかけで現在の私たちともリンクしてくる。
【表参道】
引き続き、空襲の記録にまつわる著者自身の怪異体験を経て、物語は出発点である彼岸花と二人の近親のモチーフに回帰する。
第一章【下谷の家族】とも呼応してくるものがある。
現実と夢(あり得たもう一つの現実)の境は、時に危うく交差するのだ。
章の進行とともに、件の近親に対し、語り口のシンクロがかなり進んできていることにも気づく。
ここまでの様々な女性への感情移入、一人称の語りの周回があったればこその接近か。
そこには著者と息子さんの関係性も、映っているように思える。
そして最終節【東京の娘】において、ストンと「キヨミさん」の一人称は始まる。
相棒である幼き日の著者を連れながら、物語の核心、彼女の心の在り様は、見た目上は淡々と、ざっくりしたデッサンのように示されていく。
しかしここまで本書に付き合ってきた読み手にとっては、わずか十ページ程度の「キヨミさん」になり切った語りに、行間までみっしり詰まった本物の情念が読み取れるのではないだろうか。
たとえば「和解」とか「相互理解」などという言葉では簡単にまとめてしまえない、泥の中から探り当てられた涙の粒のような結晶が、そこにはあるような気がするのだ。
秋のお彼岸の折、とても良い読書体験を持ったと思う。
